順子絶唱第二章(八)(3)
田原本健介が舅国次の国選弁護士でありながら真二の示談交渉などできるわけがなかったが、真二の交通事故死が国次の殺傷未遂の事件に密接に繋がっていることが警察や検事の事情聴取した調書から判明した。自白はないものの舅が孫を思う気持ちから犯行に及んだことは明白であり、情状酌量の余地があった。そこへ持ってきて舅の認知症とも思える症状を目の当たりにして、これは無罪を勝ち取ることも可能ではないかと推測した。更に調書をよくよく精読してみるとおかしなことに気づいた。舅側の車は舅の目の前で急停車して舅は一命を取り留めている。だのに真二は跳ね飛ばされた上に轢き殺されている。いくら青信号であったとは言え運転手が前方注意を怠っていたのではあるまいか、もしくは制限速度をオーバーしていたとしか考えられなかった。仮に制限時速四十キロを遵守していれば真二を跳ね飛ばしたとしても急停車して轢き殺すことはなかったと推測された。
田原本が順子を訪ねて来た最大の目的は真二の損害賠償の示談だった。最初は最悪の事態でも賠償金額を少し安くすることで舅の罪を軽くすれば国選弁護士の務めは果たせる。それで舅の弁護は片付くと軽く考えていた。その為にも示談交渉が成立する前に順子に逢う必要があった。順子が就業中であることを承知の上で無理やり面談を強要したのであった。応対に出た渡辺課長は若い弁護士の強引とも思える態度に懸念を抱いたが弁護を引き受けてもらえるのだから致し方がなかった。本来なら順子のためにも喜んでお願いすべきなんだろうがあまりにもすらっとした好男子で抜け目のない眼光に警戒心と言うか敵対心が燃え広がった。渡辺は付添い人として同席しようとしたが、田原本がお忙しいでしょうからその必要はないのではと言い出し、順子も何を思ったか渡辺を邪魔者みたいに扱い、
「私ひとりで大丈夫です」
と澄ました顔で田原本を喫茶店に誘い出したのであった。
渡辺課長は順子と田原本の間で真二の損害賠償の話まで出ているとは無想だにしなかった。男でも嫉妬するような華奢な田原本の出現によって、昨日までの渡辺を頼りにしていた順子とは打って変わってまるで邪魔者のように邪険に扱った豹変振りに半分呆れ、半分無性に怒りを覚えた。二、三十分の面談で片付く用件だろうから渡辺の裁量の範囲内で規則を大目に見ることも出来たのに、あてつけがましく半日の早退届まで出して田原本と二人で何処へ行って何を話し何をしているのだろう。渡辺は苛々しながら落ち着かなく、純真だと思っていた順子の心の内が分からなくなり女の怖さを見せつけられたような気がした。移ろい易いは女心と何とか云うがちょっといい男が現れると直ぐにそちらに靡いてしまう順子が信じられなくなった。あれほどいろんなことに相談に乗り世話をしてやったのに簡単に他の男に乗り換える順子の真意が理解できない。己の妻でさえ何を考えているのか分からない時があるのだから況して他人の順子のことだから致し方のないことだと自分に言い聞かせてみるが、何か軽く扱われて便利に利用されているようで腹立たしかった。美人は薄情だと世間の人はよく言うが順子だけは例外だと無理やり思い込もうとした自分の甘さに嫌気が差してきた。もう二度とあんな冷血な女の事なんか世話してやらないぞと、何度腹を括ったかわからない。これまで何度も煮え湯を飲まされたが、順子の潤んだような瞳に出会うとついほっとけなくて世話を焼きたくなるのだった。女は魔物とはよく言ったものだ。下心を抱く渡辺の弱みなんだろうか。それとも草臥れた妻と比較してあまりの違いに愕然となる己の醜い魂胆の表れなのだろうか。
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