(五)
五 女一人というのは幾つになっても悲しく寂しいものだ。況してお腹を痛めた子どもに見放されるということは死ぬほど辛い。順子は健介が直ぐ来てくれるとは云ったがその間が心配と心細さで待ち遠しく学校に電話をした。 「中山と申します。子どもの母ですが岡田先生は居られますか」 「はい、丁度休み時間ですので居られますよ。ちょっとお待ちください」 女の先生か事務員なのか分からないが若い女の人が電話に出た。 「はい、岡田です。中山君のお母さんですね。昨日はご苦労さんでした。それで今日は何か?」 「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けしました。幸治は登校しているでしょうか」 「はい、登校していますよ。何かあったんですか」 「いえ別に。本当に登校していますか」 順子は身体全体の力が抜けていくような気がしたが、更に念を押した。 「本当に来ていますよ。お母さん何があったんです。今後の事もありますので隠さずにおっしゃって下さい」 「はい、実は……昨夜先生がおっしゃったことを云いましたら勉強なんかしてもどうにもならないんだと家を飛び出して帰らなかったものですから」 「そうでしたか、分かりました。授業が始まりますので放課後幸治君と話し合って見ますからお母さんもご苦労ですが四時頃学校に来て頂けませんか」 「休み時間にすみませんでした。四時ですね。よろしくお願いします」 順子は慌てて電話を切って、大きく深呼吸をした。 「良かった、無事で居てくれて。電話をして良かった」 独り言を云いながら箪笥の上の仏壇に手を合わせた。 一時間ほどして健介と久美子が車で来た。 「遅くなって申し訳ない。車が込んでいてね。それで未だ何の連絡もないの」 二人が同伴で来た事に順子は不吉な予感が的中した不快感を露にしていた。久美子が車から降りて深々とお辞儀をしたが順子は無視するように軽く会釈しただけで幸治に視線を逸らした。 「ごめんね、学校に連絡したら登校しているんだって」 「そうか、よかった、よかった。難しい年頃だからね、無茶しなければと心配したけれど無事でよかった。一安心だ」 健介は大げさに大きく頷きながら順子の肩を叩いた。 「済みません、心配かけて。それで大事な話って」 順子はチラッと久美子を見ながら何か気がかりだった。 「それだけどね。申し訳ない!」 健介はいきなり順子の前で土下座をした。久美子も並んで同じように土下座をした。 「なんなのよ!」 順子も驚いて正座をしてお辞儀をした。 「実はね、僕が悪いんだが、久美子に子どもが出来たんだ」 「ええ、本当なの!」 順子は自分でも分かるほど顔が引きつっていった。まさかそんな馬鹿なことが信じられるわけがなかった。 「済みません、今度は本当なんです。三ヶ月になりました」 久美子は申し訳なさそうに「育児手帳」を見せた。 「君には申し訳ないが僕は子どもが欲しかったんだ。一日も早く両親に孫の顔を見せてやりたかったんだ。申し訳ない」 健介は改めて土下座をした。 順子は狐に騙されたように思考能力を失っていた。孫の顔を見せたかったと云われれば、子どもを作ることを望まなかった順子には一言もなかった。怒る元気も攻める資格もないように思えた。 「それで結婚するって訳なの」 「許してもらえるならば、そうしたいと思っている」 「許すも許さないもないでしょう。子どもまで作ったんだから。でもおめでとうとは云わないよ」 「分かってくれて、有難う。やっぱり順子は物分りがいい女なんだ」 「あんまり煽てないでよ。それで何時からっだったの。二股かけていた訳」 「そうじゃないよ。順子が子どもは欲しくないと云ったからさ。親に申し開くが出来なくてね。これから両親に報告しに行こうと思ってる」 「勝手にしたら。それで私は首なの?」 「いや、久美子は身重になったことだし、仕事は出来ないので虫がいいかもしれないけど今まで通り手伝ってもらいたいんだけど……」 健介はちょっとにやけながら上目遣いに云った。 「ほんと、虫がいい話ね。考えておくわ」 「ありがとう、ありがとう」 最後は久美子も声を合わせて頭を下げた。 健介たちが喜び勇んで帰った後、取り残された順子はボヤッとしていたが、仏壇の幸一の写真に語りかけた。 「あんた、又一人になったわよ。可愛そうでしょう」 涙が一滴溢れたが曲げた人差し指でぬぐったら何かすっきりした気分になった。最初からこうなることは分かっていたような気がした。後悔はなかった。三年間という短い期間だったけれど好きな人に巡り合い互いに愛し合ったのだから悔いはなかった。本当に一生の思い出が出来た。健介と別れれば幸治も変わってくれそうな気がした。順子は清々しい気分で学校に向かった。 「うん、大体の事情は分かった。よく隠さずに云ってくれてありがとう。それで夕べは家を飛び出し駅の待合室で寝たのか。無茶はするなよ、お母さんが大変心配をしてたぞ。お前は母子家庭の長男だそうだな。お前がお母さんを助けないでどうするんだ。人間はね誰でも自分が可愛いんだ。竹下節子君も思わぬ噂で気が動顚したんだ。一時の感情が抑えきれなかったんだ。悪気はなかったと思うよ。許しておやりよ。それが男というものだよ。わかったね」 放課後の応接室には岡田先生と幸治が向き合っていた。そこへ事務員は順子を案内した。 「丁度いいところへ来られました。一応幸治君から事情は聞きました」 「済みません。幸治、心配で眠れなかったのよ。何にもなかった」 幸治の横に腰掛けたが幸治は何にも答えなかった。 「実はねお母さん、好きな女の子が出来たらしいんですよ。誰にでもある初恋ですね」 冷え切ったその場を和ませるように岡田先生は笑いながら云った。 「まあ、そうでしたの。ちっとも知らなかったわ」 やはりそうだったのか、何かがあったのだと確信した。 「その女の子にお父さんやお祖父さんのことを云われて自棄気味になったらしんですね。しかしね、こんなことで負けてはいけない。誰にもね自分が望まなくても死に追い込まれたり、殺人者になる可能性があるんだよ。先生だって明日何かの間違いで人を殺すことになるかも知れないんだ。皆辛くて苦しいんだ。そこを乗り超えなければね、打ち克つんだ」 幸治は何かを思い出したのかじっと涙を堪えているように下を向いたまま少し鼻を啜った。 「辛かったのね。母さんには言いにくかったのね。分かってあげられなくてごめんよ」 「人間はね、いろんな事があって成長し考え方も変わるんだ。竹下節子君もきっと君の事を理解してもらえる時が来ると思うよ。いや、頑張っていればきっと来る」 「そうですね、節子さんだけでなく又きっといい人に巡り合えるわ」 「幸治君、人間はね耐えなくてはならない。歯を食いしばり足を開いてしっかり踏ん張りじっと我慢をするんだ。男は我慢だよ!耐え忍んで大地にしっかりと根を張れ。やがて綺麗な花が咲き大きな実が実るんだ。今は一生懸命に勉強をして竹下君を見返してやれ。勉強して無駄なものは何一つない。幸治君はいいお母さんに恵まれているんだ。小さくして亡くなった弟の分もお母さんに孝行するんだよ、幸治君!」 岡田先生の励ましの言葉を胸に順子たちが市内から少し離れた高台にある校門を出た時にはすでに太陽は落ちていた。 「母さんもね、健介さんに振られたの」 「えっ、本当」 「違う女の人に子どもが出来たんだって、それで結婚するから許してくれって」 「許せないね」 「母さん許したわ。これでよかったのよ。母さんには荷が重過ぎて似合わなかったの。釣り合わなかったのよ。でもいい思い出が出来て嬉しいの。幸治も節子さんと云ったけ、いい思い出になるわよ」 「あゝ、そうかも知れないよ」 「見てごらん、あのお星様きれいね!」 「あゝ、金星だよ。一番星だ!」 「見上げてごらん、夜の星を。 ぼくらのように名もない星を ささやかな幸せをうたってる」 順子はふと思い出したように口から歌が流れ出た。 「小さい頃ね、下校の途中田舎の山道で弟とよく童謡を歌っていたわ。楽しかったわよ。幸治も歌いなさいよ」 促されて幸治も順子と共に山道を想像して絶唱した。 スポットライトを浴びたように順子と幸治に冷たい月の光が冴え渡り西の空に宵の明星が光り輝いていた。 おわり
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