(五)

女一人というのは幾つになっても悲しく寂しいものだ。況してお腹を痛めた子どもに見放されるということは死ぬほど辛い。順子は健介が直ぐ来てくれるとは云ったがその間が心配と心細さで待ち遠しく学校に電話をした。

「中山と申します。子どもの母ですが岡田先生は居られますか」

「はい、丁度休み時間ですので居られますよ。ちょっとお待ちください」

女の先生か事務員なのか分からないが若い女の人が電話に出た。

「はい、岡田です。中山君のお母さんですね。昨日はご苦労さんでした。それで今日は何か?」

「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けしました。幸治は登校しているでしょうか」

「はい、登校していますよ。何かあったんですか」

「いえ別に。本当に登校していますか」

順子は身体全体の力が抜けていくような気がしたが、更に念を押した。

「本当に来ていますよ。お母さん何があったんです。今後の事もありますので隠さずにおっしゃって下さい」

「はい、実は……昨夜先生がおっしゃったことを云いましたら勉強なんかしてもどうにもならないんだと家を飛び出して帰らなかったものですから」

「そうでしたか、分かりました。授業が始まりますので放課後幸治君と話し合って見ますからお母さんもご苦労ですが四時頃学校に来て頂けませんか」

「休み時間にすみませんでした。四時ですね。よろしくお願いします」

順子は慌てて電話を切って、大きく深呼吸をした。

「良かった、無事で居てくれて。電話をして良かった」

独り言を云いながら箪笥の上の仏壇に手を合わせた。

一時間ほどして健介と久美子が車で来た。

「遅くなって申し訳ない。車が込んでいてね。それで未だ何の連絡もないの」

二人が同伴で来た事に順子は不吉な予感が的中した不快感を露にしていた。久美子が車から降りて深々とお辞儀をしたが順子は無視するように軽く会釈しただけで幸治に視線を逸らした。

「ごめんね、学校に連絡したら登校しているんだって」

「そうか、よかった、よかった。難しい年頃だからね、無茶しなければと心配したけれど無事でよかった。一安心だ」

健介は大げさに大きく頷きながら順子の肩を叩いた。

「済みません、心配かけて。それで大事な話って」

順子はチラッと久美子を見ながら何か気がかりだった。

「それだけどね。申し訳ない!」

健介はいきなり順子の前で土下座をした。久美子も並んで同じように土下座をした。

「なんなのよ!」

順子も驚いて正座をしてお辞儀をした。

「実はね、僕が悪いんだが、久美子に子どもが出来たんだ」

「ええ、本当なの!」

順子は自分でも分かるほど顔が引きつっていった。まさかそんな馬鹿なことが信じられるわけがなかった。

「済みません、今度は本当なんです。三ヶ月になりました」

久美子は申し訳なさそうに「育児手帳」を見せた。

「君には申し訳ないが僕は子どもが欲しかったんだ。一日も早く両親に孫の顔を見せてやりたかったんだ。申し訳ない」

健介は改めて土下座をした。

順子は狐に騙されたように思考能力を失っていた。孫の顔を見せたかったと云われれば、子どもを作ることを望まなかった順子には一言もなかった。怒る元気も攻める資格もないように思えた。

「それで結婚するって訳なの」

「許してもらえるならば、そうしたいと思っている」

「許すも許さないもないでしょう。子どもまで作ったんだから。でもおめでとうとは云わないよ」

「分かってくれて、有難う。やっぱり順子は物分りがいい女なんだ」

「あんまり煽てないでよ。それで何時からっだったの。二股かけていた訳」

「そうじゃないよ。順子が子どもは欲しくないと云ったからさ。親に申し開くが出来なくてね。これから両親に報告しに行こうと思ってる」

「勝手にしたら。それで私は首なの?」

「いや、久美子は身重になったことだし、仕事は出来ないので虫がいいかもしれないけど今まで通り手伝ってもらいたいんだけど……」

健介はちょっとにやけながら上目遣いに云った。

「ほんと、虫がいい話ね。考えておくわ」

「ありがとう、ありがとう」

最後は久美子も声を合わせて頭を下げた。

健介たちが喜び勇んで帰った後、取り残された順子はボヤッとしていたが、仏壇の幸一の写真に語りかけた。

「あんた、又一人になったわよ。可愛そうでしょう」

涙が一滴溢れたが曲げた人差し指でぬぐったら何かすっきりした気分になった。最初からこうなることは分かっていたような気がした。後悔はなかった。三年間という短い期間だったけれど好きな人に巡り合い互いに愛し合ったのだから悔いはなかった。本当に一生の思い出が出来た。健介と別れれば幸治も変わってくれそうな気がした。順子は清々しい気分で学校に向かった。

「うん、大体の事情は分かった。よく隠さずに云ってくれてありがとう。それで夕べは家を飛び出し駅の待合室で寝たのか。無茶はするなよ、お母さんが大変心配をしてたぞ。お前は母子家庭の長男だそうだな。お前がお母さんを助けないでどうするんだ。人間はね誰でも自分が可愛いんだ。竹下節子君も思わぬ噂で気が動顚したんだ。一時の感情が抑えきれなかったんだ。悪気はなかったと思うよ。許しておやりよ。それが男というものだよ。わかったね」

放課後の応接室には岡田先生と幸治が向き合っていた。そこへ事務員は順子を案内した。

「丁度いいところへ来られました。一応幸治君から事情は聞きました」

「済みません。幸治、心配で眠れなかったのよ。何にもなかった」

幸治の横に腰掛けたが幸治は何にも答えなかった。

「実はねお母さん、好きな女の子が出来たらしいんですよ。誰にでもある初恋ですね」

冷え切ったその場を和ませるように岡田先生は笑いながら云った。

「まあ、そうでしたの。ちっとも知らなかったわ」

やはりそうだったのか、何かがあったのだと確信した。

「その女の子にお父さんやお祖父さんのことを云われて自棄気味になったらしんですね。しかしね、こんなことで負けてはいけない。誰にもね自分が望まなくても死に追い込まれたり、殺人者になる可能性があるんだよ。先生だって明日何かの間違いで人を殺すことになるかも知れないんだ。皆辛くて苦しいんだ。そこを乗り超えなければね、打ち克つんだ」

幸治は何かを思い出したのかじっと涙を堪えているように下を向いたまま少し鼻を啜った。

「辛かったのね。母さんには言いにくかったのね。分かってあげられなくてごめんよ」

「人間はね、いろんな事があって成長し考え方も変わるんだ。竹下節子君もきっと君の事を理解してもらえる時が来ると思うよ。いや、頑張っていればきっと来る」

「そうですね、節子さんだけでなく又きっといい人に巡り合えるわ」

「幸治君、人間はね耐えなくてはならない。歯を食いしばり足を開いてしっかり踏ん張りじっと我慢をするんだ。男は我慢だよ!耐え忍んで大地にしっかりと根を張れ。やがて綺麗な花が咲き大きな実が実るんだ。今は一生懸命に勉強をして竹下君を見返してやれ。勉強して無駄なものは何一つない。幸治君はいいお母さんに恵まれているんだ。小さくして亡くなった弟の分もお母さんに孝行するんだよ、幸治君!」

岡田先生の励ましの言葉を胸に順子たちが市内から少し離れた高台にある校門を出た時にはすでに太陽は落ちていた。

「母さんもね、健介さんに振られたの」

「えっ、本当」

「違う女の人に子どもが出来たんだって、それで結婚するから許してくれって」

「許せないね」

「母さん許したわ。これでよかったのよ。母さんには荷が重過ぎて似合わなかったの。釣り合わなかったのよ。でもいい思い出が出来て嬉しいの。幸治も節子さんと云ったけ、いい思い出になるわよ」

「あゝ、そうかも知れないよ」

「見てごらん、あのお星様きれいね!」

「あゝ、金星だよ。一番星だ!」

「見上げてごらん、夜の星を。

ぼくらのように名もない星を

     ささやかな幸せをうたってる」

順子はふと思い出したように口から歌が流れ出た。

「小さい頃ね、下校の途中田舎の山道で弟とよく童謡を歌っていたわ。楽しかったわよ。幸治も歌いなさいよ」

促されて幸治も順子と共に山道を想像して絶唱した。

スポットライトを浴びたように順子と幸治に冷たい月の光が冴え渡り西の空に宵の明星が光り輝いていた。

                     おわり

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(四)

人間やましいところがあるとその場から逃げ出したくなるのが本音だろう。最近順子となるべく目線を合わせまいとしている健介の様子からも他に女が出来たのではないかと疑念を持っていた矢先、幸治の一言で順子は確信を得た。

「可愛い女の人」

と幸治は云った。一体誰なんだろう。可愛いと言うことは「若い」ということなのだろうか、だとすれば水商売の玄人ではなく普通のお嬢さん?何時の間に……順子は頭が壊れそうになり両手で抱え込んだ。計算してみると健介とのセックスは、

「でもなあ、子どもが欲しいよなあ」

と言ったときからだから三ヶ月以上遠のいていることになる。順子も未だ三十四才で子どもが産めない年ではなかったが、葉子を生んで十二年も経つと今更子どもを産み育てるのは重荷だった。況して何かと問題を起こしそうな幸治と父親の違う弟妹は生みたくなかった。又子どもが欲しいとせがまれるのを恐れて順子も健介とのセックスを控えていた。順子は痴呆症になったように一日中ボケッとして思考能力を失っていた。

「直ぐに飽きて棄てられるよ!」

と云った渡辺課長の罵声と甲高い嘲笑が順子の全身に覆いかぶさってきた。

無理が通れば道理が引っ込むの喩えで結婚しても子どもは欲しくないそんな道理が通用するわけがない。幸治のためにも健介のためにも結婚は諦めた方がいい。そんなことは疾うに分かっていた。でも順子は未だ若い。これからの長い人生一生未亡人を通すには酷過ぎた。明くる朝順子は出勤しようか迷っていた。実は好きな人が出来たんだと告白されるのが怖くて健介と顔を合わすのが辛かった。丁度その時電話が鳴り響いた。

「えっ、何ですって!お祖父ちゃんが亡くなったって」

「はい、今朝早く急に様態が悪化し突然なんですが先ほど老衰で亡くなりました。ついては身柄を引き取って欲しいのですが」

義父は殺人未遂で一審は被害者の嘆願書もあり軽い二年執行猶予三年の刑が言い渡されたが健介は精神病と言うことで無罪を主張して控訴をしていた。順子も義父には気の毒だったが刑務所を出て来ても生活に困るから刑務病院で治療してもらいながら二審を待っていたのだ。

義父は精神病が何処まで進行していたのか実際のところは分からなかったが最近では食事もほとんど摂らず痩せ衰え骨だけになっていた。義父は精神は病んでおらず正気で先のことを悲観して自ら餓死を選んだのだろうか。

「お祖父ちゃんどうしてなの、痴呆症でも前科者でもいい最後まで生きて心の支えになって欲しかった。皆逝ってしまってこれから誰を頼りに生きていけばいいの!」

健介と刑務病院へ義父を引き取りに行った順子は義父の変わり果てた姿に取り縋って泣き崩れた。

「お祖父ちゃん、ごめんなさいね。こんなに悪化していたなんて知らなかったの。許してね。幸一さんやお婆ちゃんがいる一心寺さんへ連れてってあげるからね。仲良くするんですよ……」

義父の葬儀を終えた順子は全く主人側の身内とは縁が切れてしまい都会の真ん中にぽつんと一人取り残された感じで何をする気力も失った。

健介に電話をして暫く休ませて欲しいとお願いし、四十九日の法要を済ませ一心寺へ納骨に行った。四体の骨壷を前に順子は最早流れる涙もなく途方にくれていた。何が原因で皆順子の側を離れていったのか。それはそれぞれの寿命があって仕方のないことかもしれない。これで煩わしい一切の柵から解放されるのだと順子は自分に言い聞かせ心機一転を誓った。今までは自分の幸せばかり考えて子どもたちのことを真剣に考えてこなかったのではなかろうか。だから幸治があんなふうに反抗ばかりするのだ。これからは幸治だけが頼りだ。だがその幸治は何故か健介と反りが合わずと云うより順子が健介と付き合うことを毛嫌いしているのだ。担任の岡田が云うようにじっくり話し合うしかないように思えた。

「ねえ幸治、お祖父ちゃんも亡くなってあんただけが頼りなの。お父さんやお母さんは学校へ行ってないから碌な仕事に就けなくてあなた達に苦労ばっかりかけているの。幸治にはそんな辛い思いはさせたくないの。幸せになって欲しいのよ。だからね大学へ行って良いところへ就職して欲しいのよ。分かるわね」

何時ものように夜遅く帰ってきた幸治は晩御飯を掻き込みながら五月蝿そうに聞いていた。

「大学を出たって良いところへなんか就職出来ないよ」

「どうしてなの、今は学歴社会で大学さえ出ていればいくらでも就職出来るよ」

「もういいんだよ、うちは普通の家庭ではないんだ。いくら勉強したってどうにもならないんだよ。そんなこともわからないのか!」

「どう云うことなの。うちは普通の家庭だよ。幸治が大きくなったから云うけどね真二の示談金があるから学費はあるのよ。心配しないで」

「金の問題じゃないんだ。自殺者や前科者のいる家庭で生まれた者に就職口なんかないんだよ。何でこんなうちに生んだんだよ!」

幸治は再び節子になじられたことが眼に浮かび、悔しさに偲び泣いた。

「幸治ごめんね。でもそんなことはないのよ。本人さえしっかりしていれば分かってくれる人もいるよ。岡田先生も力になるって云ってるのよ」

順子は泣き崩れる幸治の背中を摩ってやりながら慰めようのない悲しさが追いかぶさって来た。

「口ではいいこと行っても誰が分かってくれるもんか。こんな夢も希望もないうちに居たくないよ。出て行くよ!」

幸治は鞄だけを持って玄関ドアを開けた。

「全くお父さんと同じね。幸治あんたはこの家の長男よ。出て行くなら母さんを殺してお行き!わが子に捨てられるくらいなら死んだほうが増しよ!」

背中から罵声が飛んできた。

「お父さんと同じ、この家の長男」

と、聞いて一瞬幸治は怯んだが、ドアをぴしゃりと閉めて闇の中へ消えて行った。なんと云うことだ、まさか家を出て行くとは思いもしなかった。取残された順子は何のために苦労して育てたのか情けなくてその場に泣き崩れた。

順子は一晩中寝ずに幸治を待ったが帰って来ない事を心配して学校に連絡する前に健介の事務所に電話をした。

「はい、田原本法律事務所ですがどんなご相談でしょうか」

何処か聞き覚えのある女の声が応対に出た。

「中山順子と申します。健介さんは居られますか」

「えっ、順子さん!ちょっと待って下さい。順子さんです。ううっ」

順子と聞くなりショックを受けたのか久美子は呻き声を上げるなりトイレへ駆け込んでいった。

「おい、どうしたんだ!」

健介は受話器を掴んで、

「ちょっと待って下さい」

と云うなり受話器を放り出し久美子の後を追った。便器にかがみ込んだ久美子はゼイゼイと吐き気がするのか戻していた。

「久美子、お前お目出度か!」

「すみません。気をつけていたんですが……」

「何を云ってるんだ。でかしたぞ!大丈夫か」

久美子の背中を摩りながら健介は嬉しさが込み上げてきて涙が零れた。

「やった!やった!久美子でかしたぞ!男か女の子か、どっちでもいいんだ!やった!やった!」

健介は天下を取ったように久美子を抱き上げて部屋中を回りほっぺにキスの雨を降らせた。

「あなた、電話は?」

健介からあなたに代わっていた。

「あゝ、そうだった。すみません、お待たせしました」

「さっきの方、久美子さん?」

順子は冷静に云った。

「あゝ、君には済まなかったけど一人ではやっていけなくてね。君の代わりに手伝ってもらってる。今日は何か?」

他人みたいに冷たい云い方だった。

「えゝ、幸治が家を出たきり昨日の晩から帰って来ないものですから心配で」

「なにっ、幸治君が昨夜から帰ってこないって。何処に行ったか見当もつかないのか!」

お目出度に水を差すような電話に何か苛立っていた。

「全然見当が着かないの。直ぐに来てくれる」

「分かった。こちらにも大事な話があるから直ぐに行くよ」

大事な話ってなんだろう。まさか健介と久美子の間に子どもが出来たとは夢にも思わない順子は何か不吉な予感が走ったが慌てて打ち消した。そこには久しぶりに健介に会える嬉しさも少しはあった。

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(三)

 

 三

 

人の心は解らない。自分のお腹を痛めた息子でさえ何を考えているのかさっぱり解らない。好意を寄せた女の子に足蹴ざまに罵られたのだろうか。母親の感は鋭い。だが節子に振られたその原因がまさか父親や祖父にあったとは順子も露ほどにも知らなかった。あのエロ雑誌は年頃の少年によく見られる単なる好奇心から手に入れたものに違いないと思いながらも進学しないという真意を測りかねていた。やはり健介に相談するしかないかと思いながらも、その健介にも問題があった。

 順子の心配事は幾つになっても途絶えることはなかった。幸治だけでなく最近の健介の態度にも腑に落ちないことが多々あった。週に一度の土曜の逢引も仕事にかまけてすっぽかす事が多くなっていた。本当に仕事なのだろうかと疑わざるを得なかった。独立して三年にもなるのに未だに毎月少しではあったが赤字ばかりが続いておりそんなに忙しいとは思われず真二の保険金で補う始末だ。それはまあいずれの事業にしても最初から旨くいく筈はないだろうから頑張ればそのうち軌道に乗るだろうと楽観ししていたが、三十代の男が相手が居るのに何ヶ月もセックスがないのはどういうことなんだろうか考えられないことだった。もう順子には飽きて他に女が出来たのではないかと順子は火照った身体を持て余しながら健介の行動を監視する自分が嫌になっていた。でも女の感は的中していた。順子が懸念していたとおり健介は純情一筋の久美子と縒りを戻していた。それは健介が悪いとばかりは言い切れないものがあった。健介も男として生まれたからにはいずれは結婚して家庭を持ち、子どもも欲しかったのだろうが法律事務所も同業者が多く経験の浅い健介の計算通りには事は運ばなかったし、順子との結婚も幸治の反対で伸ばし伸ばしになっていた。最後に密会したのは二ケ月も前だった。その時も何かお座なりで融資して貰ってる手前、義務的にセックスの処理を済ませたという感じで健介の気持ちは何処か遠くにあるような気がして順子は何か物足りなさを残した。

「ネえっ、どうしたの。何処か身体の調子が悪いの」

「そんなことないよ」

「だってぇ元気がないじゃないの。お勤めでやってるみたい」

「そんな訳ないけどさあ。俺たち何時が来たら結婚できるのかなあ。このままでは子どもも作れないしなあ」

「そう、分かってるわよ。でも毎月赤字ばかりで子どもを生んだら生活が壊れるでしょう。仕方がないじゃないの」

「俺も分かっているんだけどね……」

「分かっているんなら、暫く様子を見るしか仕方がないんじゃない」

「でもなあ、子どもは欲しいよなあ……」

そこで二人とも黙ってしまった。出来ることなら異父兄弟になる子どもは欲しくないという順子の思惑が見え見えで健介は不満を持っていたようだった。それが全ての原因ではなかったが、早く家庭を持って落ち着きたい気持もあって結果的に健介を久美子に走らせたのだった。

久美子にとって女の一番大切な処女まで捧げたのに振られたことに一時は憤ったが、妊娠と偽った己の卑劣な行動を後悔し深く反省した。だが久美子にとって最初の男性である健介への思いは断ち切るどころか日々深まるばかりであの初夜のことが思い出されてもがき苦しんでいた。

卑怯だと罵られ一時は身を引いたが三年も経つと失恋の傷も癒え、最初の男であってみれば片時も健介を憎むことも忘れることも出来なかった。同じ業界にいれば又逢うこともあるだろうと勤めは続けていた。

それは偶然だったと言えば嘘になる。法務局への書類の提出や連絡は努めて久美子が引き受け、待合所でわざと時間を費やし健介との出会いを期待していた。曜日を変え、時間をずらしたりしたが容易に健介とめぐり合うことはなく諦めかけていた矢先だった。

「やっぱり久美子だったんだ。えらい綺麗になって見間違えたよ。元気だった」

書類に眼を通していた久美子に愛しい健介が肩を叩きながら声を掛けてきた。確かに久美子は黒のスーツにタイトスカートがよく似合うオフィスガールとしての身だしなみが板につき、ロングに垂らした黒髪は落ち着いた雰囲気を醸し出していて健介を驚かせた。

「お久しぶりです。健介さんもお変わりなくて」

「ありがとう。それにしても随分女らしくなったねえ……」

「あら、嫌だ。そんなにじろじろ見ないで」

「えっ、ごめん。余りにも綺麗になってるんでえ……あゝ、そうだ。折り入って相談したいことがあるんだ。今夜逢ってくれないか」

「えっ、今夜……今夜は約束があるんだけど何とか都合つけるわ」

久美子は一応もったいぶって見せた。

「じゃ今夜七時に阿倍野ホテルのロビーでね」

「分かったわ。阿倍野ホテルね」

そこは健介と久美子が初めて結ばれた特別なホテルで、二人とも忘れられない場所で暗黙のうちにお互いに何かを求め合い了解し合っていた。

未だ寒さが残っている次の日曜日久しぶりに幸治の進学の相談を受けた健介が順子の呼び出しで朝早くからやって来た。幸治はちょっと頭を下げただけでろくに挨拶もせず出掛けようとした。順子は健介に目配せして促した。

「幸治君、ちょっと話があるんだ。ここへ座ってくれないか」

健介は靴を履こうとする幸治の袖を引っ張った。

「放して下さい。友達と約束があるんです」

「大事な話なんだ。時間は取らせないよ」

幸治は大事な話となれば無下に断ることも出来ず座り直した。

「どのような事で御座いましょうか」

「うん、幸治君は大学へは行かないんだって?」

「それがどうか致しましたか。大学へ行くことだけが人生じゃないですからね」

「そうなんだけどね、後で後悔するよ。あの時大学へ行っておけば良かったとね」

「どうしてって、あなたには関係のないことでしょ」

「それはそうだけど幸治君は未だ若いんだ、世間を狭くして急がなくてももっと広く大きく生きて欲しいんだ」

「大きく生きるってことは両手で二人の女を愛すると言うことですか」

「何を云ってるんだ!君は」

「それ、何の話よ!」

順子も突然の話にびっくりして間に入って来た。

「先日ちょっと可愛い女の人と信号待ちしていた車に乗ってるところを見かけたものですから。チラッと見ただけですので他人間違いかも知れません」

「そうだよ。他人間違いだよ。仮にだよ僕だったとしたらそれはお客さんだよ」

「そうであることを祈ります。では失礼します」

幸治は玄関を開けて出て行った。後に呆然としている順子と健介が残された。気まずい空気にいたたまれなくなったのか健介は立ち上がりながら、

「幸治君、急に変なこと言い出すもんだから肝心な事が聞けなくてごめんね」

と、言い訳めいたことを云いながら冷や汗を掻いていた。「ほんとに何なんでしょうね」

順子も相手がまさか久美子とは想像もつかなかったが女の人と車に乗っていたのはほんとだろうと推測していた。

「早く起きて来たもんだから眠たいよ。帰って寝直すよ。じゃね」

素っ気なく言い放った健介は意にならない幸治の事もあり順子への気持が急激に冷めていき、久美子への思慕に傾注していった。

「日曜日なのに朝早くからお呼び出ししてごめんなさいね」

順子は引き止めもせず健介が車に乗るのを見送りながらぴしゃりとドアを閉めた。

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(二)

生あるものは互いに異性を求め合う。これは神が与えた自然の摂理である。だがこの摂理さえも家庭環境は理不尽に異性間を引き裂くものだ。順子は家族の事情で幸治が一目惚れした節子と決別を余儀なくされたことを知る由もなかった。

人は愛し合うために生まれたと言っても過言ではない。心身ともに人生の大半を共にする愛し合う相手に恵まれる事で人生の目的の半分は達成されたといって良い。

幸治はその愛する人に人間性を否定され七転八倒した。生きる目的がへし折られやるせなさだけが残った。人間は平等に生まれて来たはずなのにこんな無慈悲なことが許されるのだろうか。

父や弟の真二など相次ぐ三人の死亡、祖父の刑務所暮らし、愛する母の再婚話それに加えて節子への未練など幸治を取り巻く環境は最悪だった。そのことで陰湿な誹謗中傷する者も現れて十六歳の純真な少年の心がズタズタだった。

十六歳の幸治の精神と身体はアンバランスで、何かに怯え、何かに追っかけられているようで何かに熱中していなければ溶けてしまいそうで、切なさからテニスクラブに入っている友達から節子の写真を入手し節子を無理やり犯すことを想像してオナニーに溺れていった。その度に罪悪感に襲われ、甘美な欲望と後悔が繰り返され勉強への意欲がそがれ成績は極端に下がる一方になっていた。部活もしていない幸治の成績に担任の教師が心配して順子は呼び出された。

「担任の岡田です。失礼ですがお姉さんですか」

順子より一回りぐらい上に見える教師は眼鏡を少し尻上げるような仕草をしながら、幸治の母親としてはあまりにも若く美しい順子に驚きながらやさしく尋ねた。

「いえ、母親です。何時も幸治が面倒をおかけ致しております」「いや、たいへんお若くてお美しいものですから失礼しました」「まあ、お恥ずかしい……」

順子は伏目がちに恐縮しながらも艶かしく見上げた。

「大体のご家庭の事情は承知しておりますが、幸治君は授業中も何か他の事を考えてているのか心ここに在らずで質問しても頓珍漢な答えしか返ってこないのです。期末テストも最悪でして、このままでは単位が取れなくて大変です。家庭では勉強していますか」

岡田は色白で可憐な順子に見惚れながらも教師らしい威厳を持って尋ねた。

「幸治は無学な両親にしては小学校のときから勉強がよく出来て自慢の息子でした。一体誰に似たのだろうかと噂をするぐらいでした。馬鹿な親を反面教師にして頑張ってくれてるんだと今の今まで安心していました。高校生になってからはあれこれ口出しするのを嫌がりましたので自立させるのもいいかと思いまして……」

「そうですか、高校生になると勉強も難しくなりますので小、中学生のようにちょっと頭がいいだけでは着いていけません。何処か塾にいっていますか」

「いいえ、母子家庭ですからそこまでは手が回りません」

「おうちでは何時間ぐらい勉強しているんでしょうね」

「さあ、私は勤めていて帰りが遅いものですからよく分からないのです」

この時期何処の家庭でも必死に受験勉強に取り組んでいるというのに、教師は順子に強いことも云えず同情的に身を乗り出して来た。

「困りましたね。いずれに致しましてもこのままでは単位が取れなく留年ということになります。一度幸治君とじっくりと話し合ってください。私も力になりますから何時でも相談に来てください」

「有難う御座います。よろしくお願いします」

順子は眼鏡の奥から射るような岡田の視線を感じながら頭を下げた。

幸治だけはと信じていただけに事情が飲み込めず狐にだまされたようで納得できなかったが順子は何の反論も出来ず学校を後にした。振り返ってみれば幸治が高校に入学できたのも奇跡だったのかもしれない。慣れない法律事務所で健介に迷惑を掛けないように勤めるのが精一杯で幸治の入学式には参加したものの、後はPTAにも授業参観にも出席したことはなかった。親としてはあまりにも無責任すぎて教師に何を云われても頷くだけだった。

幸治の検事になる夢だけを支えに頑張ってきた順子は急ぎ足で家に着くなりワット泣き出したい気持ちを抑えて、未だ帰宅してない二階の幸治の部屋のガラス戸を開けたた。そして机の下から節子の写真を挟んだヌード満載のエロ本が出てきた。ラケットを振り上げ胸の隆起がこんもりと盛り上がった写真は誰なのだろうか。これは何を意味してるのか女である順子には分からなかった。事情を知らない順子は脳天を思いっきり叩かれたようにその場にへたり込んだ。先日も朝から屁理屈を並べて順子はやり込められたばかりであった。あの糞真面目な幸治が勉強もせずに何をしているのだろうか。馬鹿丁寧な言葉遣いは何かの隠れ蓑なのだろうか、ますます男の子というより幸治の考えていることが分からなくなった。

その夜も幸治の帰りは遅かった。

「葉子、お兄ちゃんは何時もこんなに遅いの」

「えっ、あ、何時とは違うよ」

「何時もと違うって、どう云うことなん」

「………」

「葉子、あんた何か隠しているんでしょう。隠さずに云いなさい!」

「だってぇ……お兄ちゃんに何も言うなって……」

「そう、もういいわ。そうやって二人でお母さんを馬鹿にしてなさい」

「そんな……」

これ以上葉子を責めても詮無いことだ。葉子も小さい胸を痛めているのかも知れない。

「もういいから二階へ上がってなさい」

壁掛け時計を見ながら順子は葉子を解放した。

幸治が帰って来たのは何時もどおり九時を過ぎていた。

「葉子、遅くなってごめんね。弁当買って来たよ……」

息せき切って帰ってきた幸治は居間にでんと座っている順子と眼が合ってぎょっとなり言葉に詰まった。

「何だ、葉子かと思ったら母上でしたか」

「母上でしたかじゃないでしょう。何時だと思ってるの、何時もこんな時間なの」

「葉子がしゃべったのか」

急に普通の高校生の喋りになった幸治は二階の葉子の部屋を見上げながら舌打ちした。

「葉子は何もしゃべらないよ。とにかくそこへお座りよ。ちょっと話があるの」

「疲れているんだ、眠たいから話は明日にしてくれ」

「お弁当食べるんでしょう。今日ね学校へ行って来たの」

「ええっ、何のために?」

「あなたの成績が悪いので呼び出されたのよ。このままでは大学どころか進級も出来ないって岡田先生は大変幸治のことを心配してるのよ」

「何だ、そう云うことか。心配しなくてもいいよ。幸治は大学へは行かないから」

「それって、どう云うことなの。母さんは幸治がいい大学へ入るようにと夜遅くまで頑張っているのよ」

「だから頑張らなくてもいいんだよ」

「健介さんも大学へ行かせてくれるって云ってるのよ」

「あんな奴の金で大学なんか行きたくないよ。前から云ってるだろう」

「じゃ、どうするのよ。検事になるんじゃなかったの。母さんはあんたが検事になるって云ったときどんなに嬉しかったか。母さんの夢を壊さないでよ」

「馬鹿らしい。人を貶めるような検事になんかなりたくないよ」

仮に一生懸命勉強して一流大学に入学できても親が借金を踏み倒して自殺したり、祖父が前科者の孫が検事になれる訳がない。況や万が一検事になれたしてもこんな家庭では節子がなびいてくれる可能性は百パーセント皆無なのだ。十六才の少年である幸治には節子との出会いが衝撃的であっただけに節子が全てだった。それが幸治の全人格を否定され地獄の底に蹴落とされたのだ。その節子にこっぴどく罵られ断絶されたとは情けなくて口が避けても云えなかった。

「違うよ。幸治は母上の手助けになるように一日でも早く社会に出て働きたいんだ。学校なんか行かなくてもいいんだ。母上が夜遅くまで働いているのがたまんないんだよ」

口から出任せなのか真意の程は分からなかったが、母親を守ろうとする健気な幸治にこれ以上エロ本の事も追求するのは酷な気がして順子は口を噤んだ。

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順子絶唱第四章(一)

  第四章

 一

人は一人では生きていけない。浮世のしがらみの中で切るに切れない絆が纏つく。夫婦の縁は断ち切れても親子の絆は天地がひっくり返っても断ち切れない。順子は健介との同棲を強引に推し進めようとしたが幸治の身体を張っての猛反対には親子の情には勝てなかった。一時は母親を棄て女の業を突き進もうと決心したのに土壇場で子どもには勝てなかった。それがやはり世間並みの母親というものだろうか順子は幸治を棄て切れなかった。女として母親として優し過ぎた順子が後悔する日がそう遠くない日に迫っているとは露ほどにも気が付かなかった。

春未だ浅き朝順子は出勤前のひと時をコーヒーを飲みながら新聞を広げていた。健介の法律事務所の電話番をするようになって三年近くが経ち応対も少しは慣れ、出勤時間もパートの時より遅くなって少しは時間の余裕が出来た。子どもたちも手がかからなくなりすっきりした気分のいい朝に順子は努めて新聞を広げるようになった。世間に疎い順子は専門的な法律知識は勿論一般的な社会常識も足りなかった。山奥育ちの中学しか出てない順子には読めない漢字や意味の分からない語句があって未だ新聞を読むとまではいかなかったが「声の広場」とか読者が投稿する簡潔な文章を拾い読みしながら少しづつオフィイス・レディーとしての教養を身につけようと悪戦苦闘していた。そんな苦労も分からずに傍から見ていると朝からのんびりと新聞を広げてコーヒータイムを堪能している順子の姿を横目にしながら地元の高校に進学した幸治は何か一言云いたそうだが登校寸前でもあったし一瞥しただけで黙って素通りしようとしていた。

 「行って来ますわぐらい云ったらどう?泥棒猫じゃあるまいし黙って行くことはないでしょう」

「ご熱心に拝読されておられる様子でしたのでご迷惑をおかけしてはいかがかと存じまして……」

「朝から何馬鹿なこと云ってんのよ。幸治、そのバカ丁寧な口調は未だに直らないのね!近所の人がどんな噂をしているか知ってるの。あんたを裸の貴公子だって!」

「左様でございますか真に結構なことでございますなあ」

「母さんはね、あんたのことが心配なのよ。世間を狭く生きるようなことはして欲しくないのよ」

「何をおっしゃるんです。小生は唯皆様を尊敬申し上げて丁寧に申し上げているだけですよ。母上」

「止めてよ!母上って云うの。気色悪いわ。無駄口聞いてないで早く学校へ行きなさい!」

「はい。行ってまいります。母上」

順子は高校生にもなって将来何になろうとしているのか、何を考えているのか分からない幸治の後姿を見送りながら随分と大きくなったものだと感激すると同時に大きな壁のようなものを感じどうしたものかと大きなため息をついた。新聞には毎日のように幸治と同じくらいの若者が親に暴力を振るったり、暴言を吐いたりして挙句の果てには殺人にまで及んでいる記事がでかでかと掲載されていた。対処を誤ると幸治も切れて何時順子に歯向かって来て危害を与えないとは言い切れなかった。

 順子は朝の出勤時間が遅い代わりにその分夜の帰宅が遅くなった。いつも大抵は十時ごろになった。それは法律相談者が帰社の道すがら法律事務所に立ち寄るケースが多いためでもあったが、週に一回は健介とホテルで忍びあい愛し合う時間でもあった。それは結果的に幸治に順子の目の届かない時間を多くもたらし幸治もまた順子と同じように下校時間が遅くなっていた。何のために遅くなっているのかクラブ活動だとは思うものの中学の二年生である葉子には高校のことはわかる筈もなく一人で留守番をして小さな胸を痛めていた。

「お兄ちゃん、何時も帰りが遅いけど部活なの。何のクラブに入ってるの?」

「うるさいなあ。何のクラブでもいいだろうが」

「でも葉子暗くなると一人では寂しくて怖いよ。ねえ一体何をしてるの?」

「何もしてねえよ。下校時間は母上には絶対内緒だぞ。言いつけたら承知しないからなあ!」

「言いつけたりなんかしないわよ。でも何時も九時ごろでしょう。もう少し早く帰ってきてねえ、お願い」

「分かったよ。なるべく早く帰るよ、だから母上には絶対喋んなよ」

順子はそんなこととは露知らず兄妹で仲良く留守番をしてくれているものと勝手に思い込み安心していた。

葉子の切なる願いも無視して幸治はガソリンスタンドで洗車などのバイトをして勉強を怠っていた。

それというのも幸治は節子に煮え湯を飲まされていたからだ。高校に入って間もなくのことだった。校庭を掃除していた幸治は偶然にも一年D組の節子の生徒手帳を拾った。早速D組の女の子を介して節子を大切な物を拾ったからと学校の裏の神社に呼び出した。

「大切な物ってなーに?」

「えっ、君が竹下節子さんか……」

幸治は言葉に詰まった。節子が母の順子と余りにも似ていた。ピンクがかった色白に長い睫、小さな唇と可愛い鼻は丸顔にぴったりだった。セミロングに伸ばした漆黒の髪は何処か日本人形を思わせた。唯順子と違う点は小柄でなく節子はすらりとした長身だった。

「ええっ、竹下節子よ。貴方は?」

「小生は一年B組の中山幸治だ」

「幸治さん?それで大切な落し物って何よ」

「えっ、あっ……」

こんなに綺麗な女の子がこの高校にいたのかとうっとりと見惚れていた幸治は可愛い女の子に名前を呼ばれてしどろもどろになった。

「この生徒手帳、節子さん……のだろう」

手帳を差し出しながらやっとの思いで親しみを込めて名前を云ってみた。

「ええ、昨日学校の帰りに落としたらしいの。部活で遅くなって薄暗かったから慌てていていたの」

「部活って何やってんだい」

「テニス部よ。幸治君は?」

「小生は訳あって部活はしてないんだ」

「へえっ、勉強一筋なの」

「まあ、そういうところかなあ。とにかく試合がある時は云ってくれ。応援に行くよ」

「ありがとう、それで何処で拾ってくれたの」

「校庭を掃除していたら落ちていたんだ」

「そう、再発行して貰おうかどうしたものかと考えていたの。本当に有難う」

「いや、礼を云われるほどのことではないんだが、お返しが欲しいなあ」

「おかえしって?」

「うん、次の日曜日映画に付き合ってくれないか」

断られて元々だ。幸治は自分でもびっくりするほど思い切って誘ってみた。

「ええ、いいわよ。中山幸治君だったわね。じゃ日曜日に」

思いもよらない夢の中にいるような節子の明るい返事だった。どんな人生でも棄てたものではない。人生は出会いから始まる。それが神の卑劣な悪戯であってもだ。

有頂天になった幸治はその一週間が長いようで短かった。母である順子を恋い慕う獣道に迷い込みもがき苦しむ幸治を獣道から救い出す天使が現れたのだ。人間が本来の人間性を取り戻すためにいろんな出会いやチャンスを神は授けるのかも知れない。母によく似た節子に幸治は完全に一目ぼれし母を恋慕する心が解きほぐされ開放されたかに見えた。逢って何を話そうか、わくわくする気持ちを抑え切れなくて夜も眠れず勉強が手につかなくなった。

約束の日曜日、幸治は折角貯めたバイトのお札を握り締め映画館の前で節子を待ったが一時間経っても節子は姿を現さなかった。

人の世の無常、人を信ずることの儚さ、幸治はその場にへたり込み暫くは立ち上がることも出来なかった。

翌日幸治はもう一度節子を神社に呼び出した。

「何か急用でも出来たんか」

幸治はつとめて優しく聞いた。

「いえっ、あんたとはもう付き合いたくないの!」

節子は何に苛立っているのかヒステリックに云った。

「急にどうしたんだい。どう云うことなのか説明してくれないか」

「あなたは嘘つきね。母子家庭でバイトしているんだって。おまけに父親が借金に追われて自殺したんだってねえ。そんなに貧しい家庭と付き合える訳ないでしょう」

「君は貧富の差で人を判断すのか。金で人の値打ちが決まるのか」

「貧乏人は皆大抵そういうのよ。一番お金が欲しいくせに犬の遠吠えみたいに負け惜しみ云うの。金なんかじゃない心だって云うのよねえ」

全く血も涙もない言い草だった。

「解ったよ。君がそんな考え方の人間だとは気づかなかった小生が悪かったよ」

小悪魔のように透き通る冷血な美しさに幸治は未練たらしくきつい事も云えず皮肉を云うのが精一杯だった。

「それにおじいちゃんも殺人未遂で刑務所に入っているんだってね」

「誰がそんなことまで云ったんだ!」

流石に大人しくいていた幸治も腹が立った。幸治自身に嫌われる原因があるのであればいくらでも直せるが家庭環境や身内の問題ともなればどうしようもないのだ。

「誰でもないわ。噂よ、皆知ってるわ。そんな怖い人と付き合うなって両親もカンカンに怒ってるわ」

「そうか、親の入れ知恵か」

惚れた弱みか先日の明るく朗らかな態度と百八十度転換し人の親切も解らない節子を憎みきれず、節子が悪いんじゃない幸治自身の父親や祖父が悪いんだと幸治は己に言い聞かせ諦めようとした。純真無垢な幸治は人の世の無常、呪われたような家庭に生まれた運命を三日三晩泣き続けて自分自身を納得させようとしていた。

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(十二)

十二

寝苦しい夜を過ごした順子は朝早く身支度をして出かけようとしていた。徒ならぬ気配に隣で寝ていた葉子も起きだしてきた。

「どないしたん。こんなに早く何処へ行くん?」

「ちょっとなあ……」

「ちょっとって何処なあ。健介さんとこか」

葉子は夕べから気になっていた。二人の間に何かあったらしく、夕食時順子と幸治は一言も口を聞かす通夜のように気味悪かった。

「違うよ! 健介さんとはもう付き合わへん」

「なんで健介さんと喧嘩したん」

「心配せんでもえゝ、一心寺さんへお参りに行くだけや」

「一心寺。天王寺か? うちも一緒に行く。百貨店へ行きたいんや!」

「学校があるでしょ、今日は駄目。母さん一人で行きたいの。又今度ね」

そう云うなり順子は何か思い詰めたようにドアをぴしゃりと閉めて一人で出掛けて行った。

一心寺の納骨堂の仏様に手を合わせながらも順子は昨日幸治が云った<精気を吸う女>という残酷な言葉が背中から襲い掛かってくるのを払いのけることも出来ず、ただ亡くなった三人の仏に詫び成仏を願いながらも、自分の身体の中を流れるおぞましい血に怯えていた。考えてみれば幸一が亡くなって未だ半年ばかりなのに異性に縋ろうとする自分が浅ましく分からなくなっていた。これもまた先祖から受け継がれた血に起因するのだろうか。田舎の山奥にいた頃屋島の戦いに敗れた平家の落人が山奥に逃げ込み隠れ住んだのが順子たちの先祖ではないかという話を聞いたことがあった。その落人が先住民の婦女子を虐待するような大罪を犯し、呪われた血が順子の体にも流れていて自分ではどうにも制御できない何かが支配していて幸治が云うように<精気を吸う女>になっているのだろうか。もしそうだとすれば健介さんも亡くなってしまうのだろうか。そんな馬鹿な事が、あんなに元気な健介さんが死ぬ訳がない。思い過ごしだ。矢継ぎ早に三人が亡くなったのは偶然に過ぎないんだ。順子は一心不乱に骨仏に手を合わせた。

「やっぱりここに居たんだ」

聞き慣れた懐かしい声に順子は我に返り頭を上げた。健介だった。

「えっ! どうしてここに?」

順子は飛び上がらんばかりにびっくりした。

「葉子ちゃんが電話してきたんだ。お母さんが少し変だから一心寺へ行ってみてって。何があったの?」

順子の驚いた表情には思わず抱きしめたい可憐さがあったが仏の前という場所がら健介は躊躇した。

「別に何かあったってわけではないんですけど……」

健介とはもう逢わないと決心したばかりだったが目の前に現れると、そんな決心など頭から吹っ飛び健介の胸にしなだれかかって思いっきり泣きたい衝動に駆られたが、<精気を吸う女>と罵る幸治の声が耳の奥で蠢き順子を止めさせた。

人間は目の前の幸せが待っているのに何を躊躇ってわざわざ不幸の道を選択するのだろう。幸せを求めるにはそれなりの努力がいる。不幸を選ぶ方が楽なのかもしれない。自分さえ我慢すれば何もせずにそれで済む訳だから。他人を引き込む手数が省けて面倒なことはなく簡単に不幸は手に入れることができる。人間は弱く敢えて火中の栗は拾わない。それが煩わしさを嫌う常識的な生き方なんだろう。幸治が罵ったことをいくら愛し合ってる健介であっても母と子の人間性にかかわるだけに打ち明けることは出来なかった。順子は仏に手を合わせ己の心の中で葛藤し鬩ぎ合いを続ける危険な冒険心と常識的な生き方、どちらの道を選択すべきか教えを乞うていた。

「私、私ってそんなに罪深い女なの?」

「そんな訳ないだろう。誰がそんなこと云ったの……そんなに思いつめないで自然でいいんじゃないか。とにかく少し歩こうか」

健介には葉子の電話で順子が何を悩み何を躊躇っているのかおおよその見当はついていた。優しく順子の手をとって抱き寄せ、寄り添うように腰に手を回して天王寺動物園の横を市立美術館の方へ回って歩いた。人通りは疎らで所々に彫刻のオブジェがあり、綺麗に手入れされた花壇の前のベンチに二人は寄り添うように腰掛けた。健介は順子が気持ちを落ち着けるように何もしゃべらなかった。油を注ぐより順子をやさしく見守ることで二人の思いは何も語らなくても次第にほぐれていった。

「お昼にはちょっと早いなあ、美術館にでも入る。それとも動物園にしようか」

「いいの……仕事の方?突然にこんなことになって」

「いいんだよ仕事なんか。こんなことでもなければ二人だけのデートなんか出来ないしね。仏様がくれた俺たちの時間だよ。有意義に使わないとね」

「私絵画は分からないし、動物園もテレビで観たことはあるけど行った事はないの。ライオンやトラがいるんでしょう。怖くない?」

「そりゃ怖いよ!噛み付くかもしれないよ」

「えゝ、ほんとなの。脅かさないでよ、檻があるんでしょ」

「そうだよ!檻はあるけどね、あんなもの簡単に壊して飛び出してくるんだ。ジャングルで物凄いスピードで獲物を追っかけているのテレビで観たことない?」

「観たことはあるけど、信じられないわ」

「嘘だよ。本当はね可愛いんだよ。順子さんみたいにね」

健介はつんと澄まして云った。

「まあ、意地悪!」

順子は健介を悪戯っぽく睨みながら健介の腕を捻った。

「あっ、痛たゝ」

健介は大げさに悲鳴を挙げた。

「あっ、ごめんなさい。そんなに痛かった?」

「うそだよ!」

「まあ!」

二人は手を取り合って笑い転げた。

絵画は人間の魂の叫びのようなものがあり悩みを増幅しかねない一面がある。それに反してあらゆる悩みを一時的にでもせよ解消してくれるのは罪のない顔をした動物たちだ。

動物園は平日にもかかわらず幼稚園児や引率した先生たちの何組ものグループでごった返していた。親子連れや、若いママ達が共に乳母車に赤ちゃんを乗せ、片方の手でキャーキャーと嬉しそうにはしゃいでいる幼児の手を引っ張りながらシマウマやキリンを眺めていた。

順子はそんな彼女たちや園児たちを見るにつけ胸が締め付けられる思いがした。子供たちを一度もこんなところへ連れて来たことがなかった。せめて動物園の隣の一心寺で眠っている真二だけでも連れてきてやりたかった。楽しいことが一度でもあったのだろうか。

「キリンさん、よく見てご覧。もぐもぐと口を動かしているだろう」

順子の胸のうちを知ってか知らずでか、子供好きの健介は子供たちにも聞こえるような大きな声で順子に云った。よく観てみると高い木の葉っぱを食べているようでもないのに休む間もないようにもぐもぐと口を動かしていた。

「何か食べてるの?」

「いや、あれはね反芻しているんだよ。牛と同じでね胃袋が四つあるんだ。一度飲み込んだ食物を何度も口の中へ戻し噛み直して奥の胃袋へ送るんだ」

健介は得意そうに説明した。隣の堀では河馬が大きな岩のように固まっていた。

「動かないのかしら」

「うーん寝てるのかなあ。あっ、動いたよ!」

「ほんと。後ろ足だけフワッと飛び跳ねてる!」

「何してるんだろう?スキップかな。珍しいことをするもんだね」

「ええっ、あっ!なーにあれ!」

観ると水の中で二,三度足をばたつかせていたと思ったら大きな円筒のようなものがお尻からスポーンと弾き飛ばされた。まるで大筒の大砲から打ち出されたような直径十センチ長さ三十センチ位の大きな糞がぽかりと水中に浮かんだ。するといっせいに魚たちが集まって来て糞に群がった。続いて二発、連発だ。

「へえっ、凄いね。初めて見たよ!感動したよ」

「ほんと、でも不思議ね。あの糞浮くのね、軽いのね」

「ええっ、そういえば人間のは……いやだね臭ってきそうだ。あっちへ行こう」

ライオンは王者らしくごろんと横になったままピクリともしないがトラはひょうきん者か右往左往して全く落ち着きがない。それとも威嚇しているつもりなんだろうか。順子はこのところ毎年のように下位に低迷している阪神タイガースを連想し熱狂的なファンだった亡き夫を思い出した。いくら若くてもやはり主婦は何処にいても家族から離れられないでいた。

象は器用に大きな鼻で土を掻き揚げ背中にぶっ掛けて土浴びをしていた。

「ダニやノミを撃退しているんだ」

と健介が説明した。

「そうなの、感心だわ。動物ってそれぞれ自分で身を護っているのね」

「そうだよ。あの白熊見てごらん。小首を傾けて愛嬌を振り撒いているけどオスは氷河の中を彷徨ってお腹が空いて食べるものがないと自分の子供でも食べるんだよ」

「ほんとなの?オスと云ってもお父さんでしょう。父熊が自分の子供を食べるの!」

「あゝ、だから母熊は父熊が怖いんだ。子熊を連れて必死に氷河の間を逃げるんだよ」

順子も白熊のように今日まで必死に幸一から逃げて来たのだろうか。幸一が目の前に現れるのが怖かったのは確かだった。不思議なことに他人である健介はちっとも怖くなく頼もしい限りであった。何故なんだろう。そこには愛が存在していた。愛があれば何にも怖いものはない。

動物園をぐるっと一周するともうお昼を過ぎていた。

「お腹空いたね。何処かで食事しようか」

「ええ、少しお腹空いたわね」

「何処がいいかなあ……」

健介は順子を見つめながらちょっと思案していたが、再び美術館の方に向かって歩き出した。ラーメンぐらいでほとんど外食をしたことのない順子は黙って健介について行くしかなかった。天王寺駅前のホテルのレストランで飲み干した赤ワインは何時間も動物を見て回った疲れもあってか、順子は心地よい睡魔に襲われうとうとっとした。

「疲れたねえ。ちょっと休んでいく……」

「ええっ」

順子はそれが何を意味しているのかはっきりとは分からず、初めて飲んだワインの酔いが体中に回って夢心地だった。健介に抱きかかえられてエレベーターに乗ったことは微かに覚えていたが、部屋に入ると目蓋の奥の方にベットが飛び込んできたように感じ、初めて事態を認識したが緊張と疲れで後は睡魔との闘いだった。

「駄目、ダメよ……」

ベッドに横たえられても順子は力なく嫌々をした。

「大丈夫だよ。少し休むだけだから」

健介は子供をあやすように優しく毛布を掛けてくれた。一瞬うとうととしたが何処かでシャワーの音が聞こえたような気がした。起きなければともがいたが遠くで意識するだけだった。

順子の意識が微かに戻ったのは健介の熱い唇が順子の可愛い唇に重ねられた時だった。

「うゝっ……」

順子は期待していたかのように無意識の内に両手を健介の肩に回した。健介も両手で順子の背中を抱えて強く抱きしめ熱い舌を絡ませてきた。

「あっ、駄目……苦しい。もっと強く!」

順子は云ってることが支離滅裂になりながら小さな舌をくねくねさせて応じた。健介の唇は首の周りから耳たぶへ移り軽く噛みながら内側を撫で回した。

「うゝっ!」

快感が頭を突き抜け思わず声にならない呻き声になった。いつの間にか下着だけになっていて順子のブラジャーをしてないお椀を伏せたような白い乳房に健介の手が捲し上げたシュミーズの裾から伸び柔らかい感触を楽しむようにタッチしてきた。

「あっ、待って。シャワーしてくるわ」

「いいんだよ。順子は綺麗だよ」

健介はもう我慢が出来ないのか毛布を剥ぐりシュミーズを肩から剥がし、下着も遠慮気味に引き降ろした。晩秋の柔らかい午後の日差しが差し込む白昼の光に順子の白い裸体が眩しく照らし出された。

「あっ、恥ずかしい!」

順子は片手で大切な部分を隠しながらもう一方の手で毛布を引き寄せようとした。

「お願いだ。よく見せてくれよ。夫婦になるんだからいいだろう」

「夫婦になる」

順子は口の中で呟きながら抵抗を止めて、恥ずかしそうに両手で顔を覆いながら健介の視線の中に白い裸体を惜しげもなく晒しだした。健介の期待通りで子供を三人も生んだとは思えないぴちぴちと弾んだ肌理の細やかなもち肌だった。お餅のような丸い乳房にピンクの乳首。胴がくびれて豊かな腰。少し薄めの黒い陰毛にピンクの花びら。健介は奮い立つように順子の中に入っていった。舌先で乳首を回しながら手の平で片方の乳房をもみほぐすように愛撫した。幸一のように荒々しさはなかったがじっくりとぬるま湯に浸かっているようにじわじわと身体の心から快感が滲み出し思わず身体を反り返し呻き声をあげた。

「あ、あゝ……」

健介も又真綿で締め付けられるような耐えられない快感が走り思わず一気に炸裂した。

順子は子供たちが学校から帰る前に火照った身体を持て余し気味に健介の車で送ってもらい、何食わぬ顔で子供たちを出迎えた。

「只今。母さん帰っていたの。健介さんと会えたの?心配で健介さんに電話したのよ」

「そう、ありがとう。心配してくれるのは葉子だけだね。でも、もう大丈夫よ」

「良かった!健介さんに会えたのね」

「えゝ、一心寺でお父さんにも会って健介さんとの再婚の許しを得て来たの」

「へえ、それでどうなったの」

「いいよって!苦労かけた分幸せになるんだよ。お前の人生だから好きなように生きたらいいって!」

「死んだ人間が口利くかよ、自分に都合の好いことばかり云って、母さんは勝手なんだよ!」

「あゝ、勝手にさしてもらうよ。幸治がどんなに反対してもね!」

「………」

幸治は一瞬言葉に詰まった。どうも勝手が違う。小柄な順子が今日は大きく見えた。

「母上は精気を吸う女なんだよ。健介さんがどうなってもいいの!」

「お黙り!よくも実の母親に向かってそんなひどいことが云えるね。かあさんはそんなこと信じないからね。母さんはね健介さんを愛してる以上に幸治も愛しているんだよ!」

女は信頼を寄せる愛する男と愛を確かめ合うと何か自信のようなものが沸いてきて強くなるのだろうか。抱き合う事で愛の力が如何に偉大であるかを順子は生まれて初めて経験した。

人間と動物の違いは互いの間に愛が存在するということだ。オス同士が死闘を繰り広げてメスを獲得したり、死んだ子を何時までも抱き続ける鳥もいるがそこに愛は存在しない。動物は持って生まれた習性や本能で子孫を残すため性交したり子育てをするのであってそれは決して愛からではない。

「愛」こそ人類が営々と築き上げてきた力であり、何者にも奪われることのない宝であり武器なのだ。だから愛なくしては人間は生きられない。

幸治との間も本当に愛情を持って対処すれば必ず解決する問題だと気づいた。幸治が順子に<精気を吸う女>と罵しった背景には愛情に飢えていて苦し紛れについ口に出たのであって血筋とか血縁とは関係があるとは考えられなかった。順子自身が卑下し思い悩むほどのことなのだろうか。健介に任せるのではなく順子自身が愛を持って体当たりでぶっつかれば本当の解決策が見出せるのではないかと会得した。

「勝手にしたら」

幸治は何時もとは違う順子の攻勢にたじたじの態で二階へ上がって行った。

順子は自然と鼻歌が出るような昂揚した気分で夕餉の支度にかかった。

母親が元気で笑顔でいれば家の中は明るく楽しい。テレビを観ながら夕餉の膳を囲んでも順子と葉子はタレントのギャグに笑い転げていた。幸治も無理に笑いをこらえているふうであった。

「幸治、痩せ我慢を張らないで笑いなさいよ。笑うって事は心にも身体にもいいことなのよ。くよくよしないでほら、笑いなさい!」

順子はお箸を置いて幸治のわきの下をこそばしにかかった。葉子も反対側からこそばした。

「何するねん、止めてくれ。分かったよ。こそばいからから止めてくれ……ハッハハッハ……助けてくれ!」

三人は笑い疲れた。やっと三人の心はひとつになったような気がした。

お風呂からあがった子供たちが二階へ退散した後ゆっくりと白い裸身を浴槽に浮かべた。昼間の健介の愛撫の痕跡なのか透きとおる白い肌のあちこちがほんのりとピンク色に滲んでいた。自然と両手で弾んだ胸を抱え、目を瞑りうっとりとホテルでの粘りつくようなセックスを再現させその余韻に浸っていた。幸一との夫婦生活では味わったことのないしっとりとした陶酔が今も持続し身悶えんばかりであった。お互いがお互いを燃え立たせ煩わしい浮世のことは全てそっちのけにして登り詰めていった。順子には未亡人という言葉の響きだけでなく男を夢中にさせる何かがあるのだろうか。順子自身にはそれが何であるのか解らない。湯煙の中にほんわかと映し出されるはち切れそうな白い裸身に自分でもうっとりと見つめていた。順子は思いっきりよく湯船から立ち上がり大きく背伸びをした。ささやかでいい、愛する子供たちと仲良く生きていけたら、それでいいんだ。健介とは今のままでもいい。なるようにしかならないのだ。

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(十一)

  十一

珍しく都会でも朝からいわし雲が長く尾を引き爽やかな秋風が吹いていた。順子は朝早くから引越しの準備で忙しかった。亡くなった夫や姑の遺品は全て廃棄処分した。姑のちり緬の長襦袢や絣の着物は捨てるには少し勿体無い気がしたが思いが残るようなものは持って行きたくなかった。過去を清算し思い出までも断ち切ろうとしていた。

「母上、お祖母ちゃんの着物捨てるのか。未だ綺麗やないか、勿体無いやん」

いつの間にか二階から降りてきた幸治は順子の乱暴な仕分けに怪訝そうに詰問した。

「いいのよ。もう着物なんか着る時代じゃないの。邪魔になるだけよ」

「お婆ちゃんも邪魔だった訳か。さぞかし亡くなって清々したろうなあ」

「何云ってんのよ。母さんの苦労も知らないで。今日までどんな思いで生きてきたと思ってるの。あんたも一人で大きくなったみたいな口利いて!」

「そうかよ。だったら今日から一人で生きていけばいいんだろう。母上はあの野郎と仲良くやればいいんだ。子供なんて邪魔なんだよね!」

「何もそんな事云ってないじゃないの。何処まで母さんを困らせれば気が済むの!うわぁ!……

順子は自分の気持ちを分かってくれない幸治が歯痒く、自分の息子とは思えない情けない衝動に襲われ嗚咽した。

「何だよ。何も泣くような問題じゃないだろう。嬉しいんだろう、あいつと一緒になれるんだから!俺なんか産んでくれなければ良かったんだ!」

子供は親の泣き言に弱い。慌てて順子の機嫌を取ろうとするのが普通の子供だ。幸治はそうではなかった。実の子供より恋人に走る母親に精一杯の皮肉を込め、足蹴ざまに罵った。

「そんなに母さんが健介さんと一緒になるのが悪いことなの」

順子は涙ながらに訴えた。

「善いとか悪いとか言う問題じゃないんだ。嫌なんだよ」

「何が嫌なの。新しいお父さんが出来て嬉しいでしょ」

「親父の葬式は一回でいいんだ。二回も葬式をするのは堪らないんだよ!うっ、う……

幸治は父親の死に顔を思い出したのか感極まったようにその場に蹲り咽び泣いた。あんなに毛嫌いしていた父親なのにやはり死ぬということは遣り切れないものがあったのだろうか。

「えっ、何? どういうことなの……

順子は一瞬何が起こったのか、幸治が泣き崩れた意味が分からなかった。姑の着物を抱えたまま呆然と幸治を見詰めていた。

「ねぇ、親父の二回の葬式って何?」

「母上はもう父上のことは忘れてしまったのか。未だ半年しか経ってないんだよ。父上がどんな思いで死んで行ったのか母上は何にも考えないのか!」

「そんな事ないわ。酔っ払っていたとは云え運がわるかったのよ。あんな所で川に落ちるなんて、可哀そうな人だったと思ってるよ」

「そんなふうに母上は自分を誤魔化しているんだ。父上は落ちたんじゃない。自分から飛び込んだんだ。父上を追い詰めたのは僕たちだよ」

「そんな事はないわ。前後不覚に酔っ払って足を滑らせたのよ。もし仮にあんたの云うように飛び込んだにしても原因はお父さん自身だし自分で自分を追い詰めたのよ。あまりにも弱過ぎたのよ。母さんは強く生きることにしたの」

順子にも幸一の死の原因が果たしてなんだったのかはっきりしていなかった。いずれにしてもギャンブル狂いの幸一は二進も三進も行かなくなって何時かこんな結果になるのではないかと覚悟はしていた。だから薄情なようではあるが諦めが早かった。

「それがあいつとの結婚かい! そんなに簡単に次々と男を作れるなあ。母上は少しも父上を愛してなかったのか。僕は愛のない夫婦から産まれたやっかいものだったのか!」

幸治は苛立つように声を荒げた。

「やっかいもの? そんな訳ないでしょう。幸治が産まれたとき母さんはどんなに嬉しかったか、天下を取ったような最高の喜びだったわ。それまで何にも良いことはなかったけどその時ばかりは神様に手を合わせて感謝したわ。今日まで生きてて良かったとね」

「信じられないなあ。近所の人の噂では結婚前に僕が産まれて仕方なく父上と結婚したんだそうだな。僕が産まれて来なければ母上は父上と結婚なんかしてなかったんだ。こんな苦労もしなくてよかったんだ。母上は父上を憎み僕を」

幸治の話を遮るように突然順子の掌が飛んできた。

「バシッ!」

「あっ。痛! 何するねん!」

「誰に聞いたか知らないけど分かったような口利くんじゃないよ。それ以上父さんや母さんを侮辱すると許さないよ。簡単だったけど結婚式はちゃんと挙げたんだからね。女でなければ分からないことかもしれないけどね、子供を産むというのは命がけなんだよ。憎み合ってる人の子供が産める訳がないでしょう。確かに母さんは未だ若かったから男の人のことは解らなかったけれど少なくともその時は父さんを愛してたのよ。長くは続かなかったかも知れないけれど……母さんだって一生懸命頑張ったわ」

順子は豹変した。というより強くなった。大人しいばかりの順子が健介という後ろ盾が出来たことから渡辺に対しても幸治にも真正面から立ち向かう自信が言葉の端にも行動にも満ち溢れていた。が、さすがに暴力で犯された結果の子供だとは口が裂けても云えなかった。女とは不思議な生物でお腹に子供が宿すと母性愛と共に夫に対しても憎しみよりも愛情が勝って来る。それが夫婦というものだろう。少年である幸治にはそこら辺が理解できないのだろう。純粋であればあるほど大人の世界が何故かおぞましく汚らしいものに見えてくるのかもしれない。それだけ幸治は健介が云うように純真なのだろうか。目の前にいる母親に引かれる思いが異常だとは自分でも解っていながらどうにも出来ず自分で自分を追い詰めているのかもしれない。

「一生懸命頑張った結果がこれかよ。婆ちゃんや父上が亡くなり、真二まで死んでしまって爺ちゃんは刑務所や! そんな事はみんなどうでもよかったのかよ。自分さえ良ければいいんなら勝手に結婚しろよ。僕はね父上があんなに若くして死ぬなんて可哀想というか堪んないんだよ。母上があいつと結婚したらあいつもきっと死ぬことになるんや。二人の父上の葬式を出すことになるんだよ。それが耐えられないんだ」

「なんですって! あいつって。健介さんが死ぬってこと? 何と恐ろしいことを!」

何を根拠に幸治がそんなことを云うのか順子はおぞましく身震いする思いだった。順子は遠い昔を思い出すように古びた使い手のなくなった動力ミシンを眺めながら半ば暴力で犯され動力ミシンにしがみ付いて抵抗した昔日の日の出来事が目の前に鮮やかに展開され、幸治の顔が幸一とダブって迫ってくるような錯覚に囚われた。幸治の身体の中を流れる血は幸一の血を培養して獣の血で横溢しているのだろうか。まさか幸一を大川に突き落としたのは幸治だったということはあり得ないことなのだろうか。あまりに飛躍過ぎた想像に順子は頭が狂いそうになった。

「勘違いしてもらっては困るね。何も、殺すってなんか云ってないよ。そんな怖いことできるかよ。唯母上と結婚すると男は皆早死にするんじゃないかと思うんだ」

「それどう云うことなの。説明してよ」

「母上の周りの人はたぶん母上に精気を吸い取られるんじゃないか」

幸治は軽い気持ちで冗談気味に云った。

「精気を吸い取る? 人を妖怪みたいに云わないでよ。冗談じゃないわ!」

たとえ冗談にしても聞き捨てならぬことだったが、言われてみれば世間にはその人と親しくすればするほど皆次々と早死にするといった例があると聞いたことがある。義母や主人に続いて年端の行かない真二まで次々と亡くなったのは不思議といえば不思議な悲しい出来事だった。本当に順子に近づく人は皆早く死んでいくのだろうか。何かの因縁か、それとも祟りなのだろうか。順子は我が子にまでそんなふうに見られていることにショックを受け、謂れのない情けない気分に陥り涙がとめどなく流れた。

幸治も言い過ぎたと思ったのかそれ以上は何も言わず黙って二階へ上がって行った。

ひとしきり泣き続けた順子は気を取り直すように箪笥の上に置かれた三人の位牌をじっと見つめながらロウソクに灯りをつけ、頭を垂れながらいつまでも念仏を唱えていた。

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(十)

健介との結婚が現実味を帯び、順子の心は嬉しさとは裏腹に重かった。渡辺課長には一方ならず世話になりながら裏切るような形になったのが心苦しかった。互いの事情があったとはいえ、結局は期待したようなことは何にもなかった。それが良かったのか悪かったのかは分からないが、今となってはどうしようもなくどちらの家庭も壊さなかったことを良しとするのが大人の恋だと順子は勝手に解釈した。けじめをつける意味で順子は恐る恐る辞表を出した。

「えっ、ほんとなの?どういうこと何や。折角チーフにしたのに何が気に入らないんだ。冗談だろう。それとも僕が何かした!」

渡辺は突然に順子から辞表を突きつけられて動顚したのか一気にまくし立てた。

「いえ、課長さんには本当に良くして頂けました。感謝しています」

「訳が解らんな。それじゃ何故なんだ。わかるように説明してくれ!」

渡辺はあれほど順子のために面倒を見てきたのに、歯軋りを噛む思いだった。男に生まれて初めての幸運が舞い降りて来た矢先目の前に突然頑丈なシャッターが降ろされ、真っ暗な部屋に閉じ込められたような閉塞感に襲われた。一生に一度在るかないかのチャンスだった。今になって愛してもいない妻子や家庭の平穏のために踏ん切りを着けなかった己の気の弱さが腹立たしかった。

寅さんではないが男はつらいものと諦め家庭の幸せのために犠牲になるしか方策はないのだろうか。それが世間一般のサラリーマンの宿命なのかもしれない。ドラマのように若いOLと不倫の愛に走ることは競争社会のサラリーマンには縁のないことだ。ほとんどの男性が不平不満を抱えたまま日常の生活に追われあくせくと汗を流し、意味のない年月だけが思い足取りで過ぎて行く。家庭円満こそが幸せというものだと男は感覚を麻痺させられ、ひたすら仕事に精を出さざるを得ない状況に追い遣られる。

古女房一筋に誠実に生きてきた渡辺だったが最近何やら虚しさが胸の中で渦巻き何か人生に大切な忘れ物をしたような錯覚に陥り急に自我に目覚めはじめ、もがき苦しみ夜も眠れない日が続いていた。課長止まりでこれ以上の出世も望めず先の見えた男の最後の悪足掻きかもしれない。

ささやかな平穏な老後を望めば良かったのに、折角男に生まれたのだからこのまま終わりたくはない焦りもあった。最後に自分の欲望を満たしたい野望が頭を擡げてくる。仄かに灯る残り火を燃えたぎらせて、鼻の先に脂汗を滲ませて若い肉体に惑わされ、営々と築き上げてきた平和な家庭も爪に火を点すようにこつこつと貯めてきた僅かばかりの蓄財も全てを失ってでも弾んだ美乳に魅了され快楽の奈落の底へ落ちる哀れな中年男を演じるのか。どちらが本当に人間らしく生きたと言えるのか分からなかった。

自問自答しながらも渡辺は愚かなことは絶対にしまいと己に誓い、何かと問題を起し後を引く若いOLには手を出さず、さりとて自分の担当範囲であるパートのおばちゃん連中は皆草臥れて愛人の対象にはならずつくづく己の運のなさを嘆いていた。でもこれでいいんだ。幸せとはいえないにしても身分相応の家庭があり、若いときは夢中になった妻も居る。それで十分ではないかと人生を諦めた時だった。

そこに千載一遇のチャンスが巡ってきたのだ。

神は渡辺にも平等にチャンスを与えたのだった。

こんな幸運が訪れるとは夢にも思わなかった。古女房一人でじっと辛抱してきた甲斐があったというのだろうか。鼻先にニンジンを突きつけられて一溜まりもなくだらしない唯の中年のオッサンになりさがっていた。快楽か奈落の底に転落するかは誰にも予想できない分かれ道を試練の場として神は与えた。

それが順子との巡り合いだった。

千載一遇のチャンスを目の前にしながら何もできないまま幸運の女神は天国へ舞い戻ってしまうのか。

「大変お世話になっておきながら報告が遅れましたが、私結婚することになりました」

「えっ、何! 結婚? 嘘だろう!」

寝耳に水だった。

渡辺の仰天振りに順子はある程度の予測はしていたが、あまりの驚きと憤りに渡辺という男の底の浅さを見たような気がした。

「いえ、本当なんです。寿退社お願いします」

順子は渡辺を見据えたまま顔色一つ変えず落ち着いた口調で答えた。それは今までの渡辺に対するお礼というより中年男に対する哀れみの眼差しであった。

「で、相手の男は誰なんだ。まさか……あの弁護士の……

「そのまさかなんです。田原本健介さんと結婚します」

「は、はっ、はっ、はぁ……君ぃ、順子君騙されてるんだよ!天下の弁護士だよ。幾ら物好きとはいえ子連れの、それも三人も産んだ三十女にだよ!一回ぐらい寝たんだろうが弄ばされてるんだよ。目を覚ませよ順子君!」

あまりの下種の勘繰りに順子は呆れ果て、渡辺と深い関係にならなかったことを好運だったと感謝した。もし仮に一度でもそういう関係をもっていたら三十後家、淫乱、どんな下品な言葉を投げつけられていたかと思っただけでもぞっとした。

「課長、私たちは課長が想像するようなそんな下品な関係ではありません。真剣に結婚を考えているんです。近く彼のマンションに引越しします」

「引っ越す? 子供も一緒にか」

「ええ、勿論です……

順子は幸治の事が思い出されて言葉に詰まった。

「勿論、何だ? 子供が嫌がっているんだろう。子供は感がいいからよく分かっているんだ。直ぐに捨てられるってことをなあ。そんな馬鹿な結婚は止めた方がいい。第一釣り合ってないんだよ。何でも釣り合いってことが大切なんだよ。無理して背伸びしても上手くいく訳がない。後で後悔するだけだよ。一時の迷いだよ。冷静に考えるんだな」

流石に渡辺は大人だった。興奮状態から徐々に己を取り戻しつつあった。冷静に考えなくても渡辺の云う通り、世間の常識から考えても直ぐに飽きられ捨てられるのが落ちなのかもしれない。

飽きられ、捨てられてもいい。順子は一生に一度命がけの恋がしたかった。女の悲しい性で如何なる形にしろ一度でも関係が結ばれると女は弱い。幸一に暴力で一方的に犯され子供まで授かり、子供可愛さにずるずると愛のない結婚生活が続いたが幸一の不慮の死で、皮肉にも結婚生活に終止符を打つことができた今、順子は女として悔いのない、近くの公園で真っ赤に燃え立っている百日紅の花のような激しい恋がしたかった。好きでもない幸一との性生活の反動か母親よりも女の部分がより強く吹き出し、幸治の反対を押し切って例え一日でもいい健介との愛の巣を育みたいと切望した。

順子は渡辺の助言も無視し、強引に辞表を突きつけ退社した。身体を張って無理やり止めることも出来ず辞表を手にして呆然と順子を見送るしか渡辺は方策がなかった。

「馬鹿やろう。恩知らずめ!」

窓際に立って未練たらしく順子の後ろ姿を睨みながら口の中で口汚く罵った。

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(九)

 九

人の一生ほど儚いものはない。花とか動物ならば心を和ませたり、感動を与えたりして存在価値がある。人間は何にもない。傲慢で己の欲望のみに生きている。地球環境を汚し、限りある資源を食いつぶし明日なき世界へ破滅の道をひた走る。美しい自然なんか欲望の前には目に入らない。欲望のない人間はその存在すら否定される。欲望があるからこそ人間は生きていけるのかもしれない。

人生のうちで欲望もなく純粋に生きていられるのは十三才から十五才の中学生時代だけだといっても過言ではない。でも幸治は違っているように順子には思えた。既に周囲の環境から欲望の蠢く渦中に巻き込まれていた。どちらかと言えば弱者の味方の弁護士よりも不正を許さず真実を追究する検事の方が何事にも厳しい幸治には向いているのかもしれない。幸治は幸治なりに自分の性格に合った将来の事を考えているのだろうか。順子はそれが嬉しく我が子ながら頼もしくもあったが十三才にしては余りにませ過ぎているようにも思え何処か不安な面もあった。

その不安を取り除くように無学な順子は幸治をひしと我が胸に抱きしめ溺愛した。普通ならば幸治ぐらいの年齢になれば母親の溺愛は鬱陶しく閉口し逃げ出すものだが幸治は違っていた。むしろ母親に抱かれることを望んでいるのか自ら抱かれることに喜びを抱き快感を感じているらしく柔らかい胸に抱かれてうっとりと夢心地になっていた。それは傍目には仲睦まじく写る反面何か嫌らしくおぞましく見えることもあった。父親が早くから家に寄りつかず父親代わりをしてきたことも起因しているのであろうが、何よりも順子が小柄で可愛く幸治と年齢差がないということが母親ではなく無意識のうちに一人の女として感じていたのかもしれない。

 そんな事とは露知らず順子は直ぐに切れる父親の血を引く幸治が可哀想でもあり不安でもあった。その不安を取り除くには溺愛するしか方法を知らなかった。それは益々幸治を苛立たせ快感を貪る危険性を孕んでいた。

 母親を奪おうとする健介に敵対心が芽生え口に出して云えないもどかしさが幸治をかたくなに健介を拒否しているように見えた。

「幸治、母さんねあんたが健介さんを嫌っているのはわかるのよ。でも何故嫌っているのか解らないの。ねえ何故なの」

「あいつは真二やお爺ちゃんの事でいろいろやってくれたかもしれない。でもそれはあいつの仕事なんだ。愛情でもなんでもない。僕にもようわからんがあいつの目的は何なんだ。貧乏な我が家にお金があるわけもなく、金目的でもなさそうだし何か不気味なんだ。母上しっかりしてよ。冷静に考えてみてよ。あんな口先だけで人を騙すような男の何処がいいんだ」

冷静に考えなくても幸治の云う通りなのかも知れない。そんな不安は順子の胸の奥底に蟠っていないと言えば嘘になる。順子はその不安を常に胸の奥へ奥へと閉じ込め見ないように努めて来たのは事実だ。でもそれを幸治から指摘されると余計に否定せざるを得なくなった。

「お金もないこんな子供が二人もいるおばさんに結婚してくれって言う? 普通は言わないわよね。結婚ってもっと神聖なものでしょう。母さんは健介さんを信じてるの」

「信じるのは勝手だよ。でも僕たち子供を巻き込まないでよね」

どこまでいっても堂々巡りで順子と幸治の妥協点はなかった。

「葉子はね、健介さんのこと好きみたいよ。葉子と母さんが健介さんの所へ行けば幸治はどうするの」

順子に言われるまでもなく最近の葉子の言動に幸治は頭を痛めていた。

須磨の海岸へ行ったときも幸治の眼前で呆れるほど波打ち際で葉子と健介と戯れはしゃいでいた。真夏の太陽の光りをイッパイに浴びて本当の父娘以上の何か異常な関係に幸治には感じられたのを目の当たりにしていた。葉子は五年生、母親と違って体格がよくもう初潮が始まっていてもおかしくない。もう一人の女性として新しい若い父親というより格好いい恋人のように感じたのだろうか。だとすれば葉子は母親と一緒に健介のマンションに喜んで行くに違いない。幸治は何とか葉子を行かないように言い包める方法はないものかと思案したが咄嗟には妙案が浮かばなかった。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんオシッコ!」

小さい時からまるで母親のようにおしめを換えたり、パンツを脱がせて便所まで連れて行ってやったりお風呂に一緒に入り頭から足の先まで洗ってやった。祖父母は病院へ行ったきりだし、母親はパートで大人が一人もいなかった昼間は家庭が暗く不安が襲い掛かってきたのだろう一日中葉子は幸治にくっついて手を焼かせていた。何処へ行くにも手を引いて二人は恋人のように育った。そんな葉子が急変し幸治を避けよう避けようとしていた。

「母上も葉子も勝手に健介さんの所へ行けばいいんだ。僕はここにいるからね!」

幸治はそんな強がりを云った。

男と女は成長するにしたがって性格的にも生理的にもやはり違って来るものだろうか。大人の仲間入りをしようとする幸治にはまだそこら辺がよく分からず未知の世界なのだろう。男と女、構造的には異なることは生物の時間に教わり知識としては理解していても体感的には謎の部分が多かったに違いない。無理に背伸びをして精神的自我に目覚め一人前の男になろうとしても男と女の間には幸治の想像を超えた神秘というか謎の部分が多かったようだ。何故人間は男と女の二種類に分かれているのか。自分と異なる女という生き物に興味を持ち、魅かれていくのか自分自身が分からなくなっていたに違いない。幸治の関心は勉強よりも神秘のベールに覆われた異性に傾注し何も手に付かなくなっているようで順子を見る目が鋭く異様に感じられた。無理もないのだろうか急に身体ばかりが発育し変化していく過程で精神が未発達のままで身動きが取れなくもがき苦しんでいたのかもしれない。頭の中に想い悩むことは母に抱かれてあの柔らかい順子の乳房の感触が脳裏から離れずその快感に酔いしれしばしば幸治の夢の中であやふやで大胆な妄想が広がり夢精となって発射された。その度に幸治は何か大罪を犯したような恐縮した心境に追い詰められ、情けなく打ちひしがれた自分がいた。そんな悩みを打ち明ける相手も男一人の家庭では居なかったことが幸治や順子一家の悲劇の始まりだったのかもしれない。

健介が幸治を説得すると云ったのを制して順子は母親である自分が先に事情を説明するつもりだったが感情が先走りして旨く幸治に真意が伝わらなかった。幾ら幸治と話し合っても埒が空かないと判断した順子は田原本健介に乗り出してもらうより他に方策がないと悟った。

「やっぱり母親では駄目だったわ。男の子は男親でなければ理解し得ない部分があるのかしら、私には幸治が何を考え何をしたいのかさっぱり分からないの。ただ弁護士にはなりたくない。弁護士になるくらいなら検事の方がいいって。それぐらいなの、話が通じたのは。ただ健介さんの所には行きたくないの、その一点張りなの」

「そうだなあ、あの年頃の少年はみんなそうなんだ。社会にも親にも抵抗するんだ。自分でも何のために何に反発しているのかよく分かっていないんだ。唯もう苛つくんだ。大人になりきれない自分に、思うようにならない社会にね」

「男の世界って難しいのね。どうすればいいいの」

「なーに大丈夫だよ。幸治君は純情すぎるんだよ。だけど男は純真でなければならない。それでいいんだ」

何がいいのか、順子は純真と依怙地は違うような気がした。

厳しかった残暑がようやく終わり、朝夕は涼しい秋口の風が通り抜けるようになった。順子は幸治のことは男同士の話し合いということで健介に託して、取り敢えず身辺整理をするためパートを辞める決心をした。それは健介の希望でもあった。経費節約のためパートを辞めて健介の秘書とまではいかないが、法律事務所の電話番をして欲しいというのが本音だった。順子も健介と一緒に仕事が出来ることが嬉しくもあり不安でもあったが、少しでも健介の役に立てばと快く了承した。

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(八)

  八

前科者の舅、入水自殺した夫である中山家から籍を抜くのが子供たちのためにも賢明な策だと判断した。だが子供たちにどう説明し納得させたものか思案に暮れた。とりわけ中学生で大人の仲間入りをしている幸治には注意深く説明する必要があった。

「幸治、ちょっと話があるんだけど。座って」

夕食を終えて立ち上がり二階へ上がろうとする幸治を呼び止めた。

「何だよ、勉強が忙しいんだ」

このところ何故だか幸治はあからさまに母親を避けようとしていた。親が鬱陶しく感じるのは思春期にありがちな事だったが幸治の場合はそれだけではなかった。

家出勝ちで家庭を顧みない父親ではあったが憎しみとともに何処かで唯生きていてくれるだけで、頼りにならなくても心の支えになり安心感があった。それがいざ亡くなってみるとつっかい棒が外された感じで押し掛かってくる責任感に悲鳴をあげたに違いない。十三才で男親を亡くした幸治は長男として想像以上にショックを受け、頼りにはならなかったけれど幼い弟まで亡くして少年の両肩に掛かった重圧は耐え切れないものがあったのだろう。その衝撃は長男でなければ分からない男の責任感のようなものがあった。父親が亡くなった今、順子を支え葉子の父親代わりとして順子と家庭を守ろうと小さい胸の中で決心したばかりであった。そこに現れたのが弁護士であり順子の恋人の田原本健介だった。幸治は父親に去られ、信頼していた母親に裏切られたようで胸が張り裂けそうになっていた。須磨海岸で見せつけられた二人の仲睦まじさ、わざとらしい馴れ馴れしさ、無理に繕った笑顔全てが気に入らなかった幸治だったが面と向かって健介と対峙する勇気も非難も出来なかった。結局、父親面を許した順子に辛く当たるしか気持ちの持って行き場所がなかった。

「ねえ幸治。健介さんをどう思う」

「どう思うって、何とも思わないよ。どういう意味だい」

「母さんね、健介さんと結婚しようかと思うんだけど……いいかしら」

順子は包み隠さずストレートに自分の思いを幸治にぶっつけた。なまじ持って回った言い方では勘の鋭い幸治をいらつかせるだけでよい結果に繋がらないと判断したからだ。

「け、結婚!父上が亡くなって未だ半年も経ってないんだぞ」

もう少し遠慮がちに幸治にアドバイスを求めるべきだったが行き成り結婚を切り出されて幸治はうろたえていた。

「今直ぐって訳ではないの。健介さんにはおじいちゃんや真二の事で親身にも及ばないお世話になったわ。母さん一人だったらどないしていいか、まごつくばかりで何にも出来なかったわ。健介さんはあんた達や母さんのために随分と頑張ってくれたの」

「あいつの魂胆は分かっているよ。母上を騙そうとしているんだ。弁護士と言う肩書きを利用して母上や僕たちを誑かそうとしているんだ。愛に飢えている母子家庭なんかあいつらに掛かったらいちころだ。いい加減眼を覚ませよ、母上!」

これが中学一年生の言葉かと順子は眼を丸くした。我が子ながら何か末恐ろしいものを感じた。

「健介さんはそんな人じゃないわ。貴方たちのことも随分と考えてくれているの。大学まではどんなことがあっても行かせたいって」

「それ見ろ!見栄だけじゃないか。中身がないんだよ」

「中身ってなんなのよ。責任を持って大学まで出すと云ってくれてるのよ」

「責任を果たせばそれで対面は保たれると思っているんだ。愛情が感じられないんだよ」

「どうしてよ。母さんなんか学校へ行きたくても中学校だけしか行けなかったのよ。大学まで行かせて貰えば後は何になろうが貴方たちの問題でしょう」

「あいつの金で大学なんか行きたくないよ」

「お金は……」

賠償金があるのよと云いかけたが順子は言葉を飲み込んだ。正直に示談金のことを云えば今の幸治は何をしでかすか全く見当がつかなかった。増してや取り敢えずにしてもその金を健介の独立資金にも使うと知れば黙って許すどころか結婚さえもご破算になることは火を見るよりも明らかだった。

「いえね、貴方たちもきれいなマンションに住めるのよ」

「マンション?ほんとかよ」

幸治もまた、見栄や外見を気にしており、予てより今にも倒れそうな長屋立ての我が家を恥ずかしく思っていた。マンションと聞いて考えが少しぐらついた。

「そうよ。健介さんのマンションは広くてきれいよ。そこへ引っ越すの」

「母上はそのマンションに行ったことがあるのか」

「ないわよ!未だ結婚もしてないのに」

順子は慌てて否定した。

「行ってもないのによく分かるね。広いかどうか分からないじゃないか」

「そりゃ、健介さんに聞いたのよ。広いから皆で一緒に住もうって」

幸治は何を考えているのだろう。男が一人で住んでいるマンションに女が一人で訪ねて行けるわけがない。順子は冷や汗の出る思いだった。

「ふーん、広くてきれいなんだ。でも僕は行かないよ」

「えっ、どうして!」

順子が一番恐れ、予想していた答えが跳ね返ってきた。

「弁護士だか何だか知らないが偉そうにしやがって。君は勉強が出来そうだから将来は僕の後をついで弁護士になるんだなあって勝手に人の人生を決めやがってくそ面白くもない。あんな奴の世話にはなりたくないよ!」

順子は耳を疑いたくなった。幸治からこんな汚い乱暴な口を利いたことがない。やはり血は争えないのか、父親とそっくりではないか。わが子ながらぞっとして幸治を見詰め直した。

「いいじゃないの。あんたもいつもへ理屈ばかり並べて弁護士になりたかったんじゃない。それだったらこんなにいい境遇に恵まれて良かったじゃない。将来が前途洋洋じゃない」

「何が前途洋洋じゃ俺はなあ、あんなデレデレした弁護士にはなりたくないよ。きりっとした検事の方がいいよ!」

「へえっそうなんだ、母さん嬉しいよ。幸治が立派な検事になってくれたらこんな嬉しいことはないんよ」

順子より大きい幸治を抱きかかえ嬉し涙を流した。

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