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2008年10月

ラッキーとあいつと妻(3)

いずれにしてもラッキーがあいつと巡り合うことが出来たのは親切なお婆さんと心優しい爺さんの切ない暮らしがあったからだ。

お婆さんは大事そうに涙を拭いたタオルにラッキーの母親になる子犬を包んで帰って来た。

「おじいさん大変だよ子供が出来たよ」

「ええっ、何やて。子供、子供が出来たって!」

「そうよ可愛いんだから」

「お前、気は確かか?えらいこっちゃ、婆さんまでがボケたか」

おじいさんは糖尿病を患っており、最近足が痺れるときがある。リハビリにお婆さんは一緒にウォーキングしようと言うのに億劫がって布団に潜り込みテレビ三昧だが、爺さんはさすがに婆さんの様子が気になり曲がりかけた腰を伸ばすようにして頭だけ婆さんの方に向けた。ばあさんはいそいそと暖かい電気炬燵の中に子犬を寝かせ、冷蔵庫から牛乳を取り出して途中で買ってきた哺乳ビンに入れていた。哺乳ビンを見て爺さんは吃驚して起き上がってきた。

「おい婆さん、何をしとんね。ほんまに子供が出来たんか。お前正気か!」

「ほんまやで、女の子や。ほれっ可愛いでしょう」

婆さんは子犬を差し出した。

「何だ、犬か。吃驚させるなよ」

婆さんは子犬に哺乳ビンを銜えさせた。子犬は可愛い口でスパスパと吸い出した。

「まあ、可愛いわね」

婆さんは安心したようにホット息を継いで、子犬を爺さんに渡しながら惚けて云った。

「あんた私が他所の男と子供作ったと思ったんでしょう」

「アホぬかせ!誰が梅干婆さんを相手にするか」

「そんな事ないよ。オッパイだって未だ立派だよ」

婆さんは服を掻き上げて随分と糸瓜のように垂れ下がったオッパイを見せびらかした。

「お前なあアホな事せんと、その太鼓腹何とかせいよ。乳より膨れてるやないか」

「アホくさ。見せるんじゃなかった。私もウォーキングで腹引っ込めるからあんたもこの子連れて散歩しいや。寝たきりになったらお互い困るんよ」

「ああ、分かったよ。それにしてもこの犬何処で貰って来たんだ」

「公園に捨てられていたのよ。可哀想に……

婆さんは再び泣きながら事情を説明した。

「そうか、可愛そうな事したな。この子だけでも長生きさせてやらんとなあ」

子犬は満腹になり、眠くなったのかグニャリとなった。

「可哀想に疲れているんや。少し寝かせてやろう」

婆さんはタオルを何枚も敷き重ねて子犬を寝かせてやった。子犬は顎たんを前に突き出しアンパンを踏み潰したような格好で気持良さそうにスースーと寝息を立て始めた。老夫婦は飽きることなく何時までも見つめていた。

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ラッキーとあいつと妻(2)

ラッキーは母さんが人間の都合で三度捨てられ三度拾われるという悲惨な事実を知らなかった。母さんから聞いた話だと母さんは最初は眼も見えない生まれたばかりの兄弟たちと一緒に段ボールに入れられ小さな公園に捨てられたそうだ。責任放棄の言い訳か,良心の呵責に耐えられなかったのか段ボールは飛び出して車に惹かれないように閉ざされ小さい空気穴が開けられており、「どなたか貰ってください。可愛がってネ」とマジックで書かれたシールが貼り付けられていた。

飼い主の得手勝手な行為は母さんたちの生命与奪に係わった。その日のうちに学校帰りの子供たちの格好のおもちゃにされた。子供たちは子犬を持ち上げて振り回したり頬擦りをして「可愛い!」と奇声を挙げた。さすがに女の子は給食の食べ残したパン切れや屑篭から拾ってきたお弁当のトレイに水を汲んできてくれたが子犬たちは口を開けなかった。オッパイしか飲まない子犬には未だ無理なのだが子供たちには解らないらしい。近くで野球をしている大人たちは無関心を装っている。

「お前!そんな食べ残し食べるかよ。連れて帰ろうと思ってんだろう。市営住宅では飼えないんだからなあ」

「あんただってマンションじゃないの」

「そんな事分かってるよ!」

男の子は連れて帰りたい気持と戦いジレンマに陥った。次第に苛立って愛情が憎しみに変化していった。

「おい、可愛い顔してワンと泣いてみろ」

我慢しきれず拳骨で子犬の頭を殴った。

「クン、クン、ククウ」

「止めてよ!死んでしまうよ」

「どうせ捨てられたんだから、こいつらは死ぬんだよ」

「そんな可愛そうな事云わないで!」

女の子は居たたまれなくなって泣きながら帰って行った。

翌日母さんがおなかが空いてクンクン泣いていたら公園をウォーキングしていた七十位のお婆さんが子犬の段ボールに気づいたのか近寄って来て段ボールを開けてくれた。子犬が四匹倒れていた。お婆さんはオロオロしながらも直ぐに交番へ通報した。お巡りさんが来て調べたら三匹は既に事切れていた。

「なんて、惨い事を……

お婆さんは首に巻いていたタオルで眼を覆いながら咽び泣いた。

「ほんまに酷い事するなあ……誰が捨てたんだろう?人間のすることじゃないよ」

お巡りさんはスコップを持ってきて木の下へ三匹を埋めてやった。おばあさんは石ころを拾ってきて墓石代わりに建ててブツブツとお経を唱えながら手を合わした。

「さてと、この子犬はどうしようかなあ。拾得物でもないし……

生き残った一匹の子犬の頭を撫でながらお婆さんに云った。

「何かのご縁ですわ。私が飼ってもよろしおますか」

「そうしてくれるか。助かるわ。折角生き残った甲斐があったがなあ。お婆さんは地獄に仏ですわワハハハッ」

ラッキーのお母さんはメスだったせいか生命力が強く幸運にも生き延びお婆さんに助けられた。もしお婆さんに助けられなかったら二年後にラッキーはこの世に生まれることもなくあいつに拉致されることもなかった。果たして生まれて来て良かったのか、あいつが運命を嘆くようにラッキーも幸運だったとは云えないかもしれない。

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ラッキーとあいつと妻(1)

ま え が き

人間は夢とユーモアなしでは生きられない。

鈍臭い夢でも夢は夢である。

最近はペットブームで犬の種類も飼う人も非常に増えたが、ラッキーが生まれた十年前は都会では犬を飼う人は珍しかった。尋ねてくる人が家が分からなくても犬が居るところですよと言えば百メートル位離れていても直ぐに教えてくれた。それほどに犬を飼う人が少なく子犬はほとんどが捨てられた。ラッキーもご多分に漏れず野良犬の子に生まれ、ほんのちょっとした運命の悪戯であいつに飼われた。何回も捨てられたラッキーの母親に比べれば少しは幸せだったのかも知れないが得て勝手なあいつに振り回され人間の醜い争いに巻き込まれる。

熟年を迎えた一人の男。こんな筈ではなかった。俺の人生はこれで終わっていいのか。あいつの無駄な抵抗と無様な生き方について行けない妻。あいつの苛立ちと焦りが原因で夫婦仲は冷え切り離婚の危機に直面する。一度人間に飼われたラッキーは自分だけでは生きて行けずあいつに身を委ねるしかない。健気にも身を呈してあいつら夫婦を守ろうとする。

夫婦とは何か。男とは何か。あいつはのたうち自らに問いかける。

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清流に舞った花びら

              

一  

「素敵!」
「凄い指輪ね、婚約指輪?」
「ええ、きれいでしょ」
 順子は迷っていた。得意げに女友達に婚約指輪を見せびらかして自分に結婚を決断させようとしていた。幸雄が遅れて講堂に入ってきた。順子は見られまいとして慌てて指輪をはずした。この優しい心遣いが順子の未来を決定付ける事になろうとは順子自身も気づかなかった。
「みんな揃ったようですから稽古始めましょうか」
 演出監督の井上先生の合図で皆一斉に舞台に上がった。成人式のお祝いの催し物として青年団で演劇をやることになり、幸雄が主役に選ばれた。稽古の合間に舞台の奥の通路で幸雄と順子は二人っきりになった。順子が結婚すると言う噂を幸雄は信じられなかった。何か怖い気がしたが、直接問い質すしかなかった。
「結婚するって、本当」
「うん……未だはっきり決めたわけではないのよ」
 かねてこうなる事は解かっていた.唯あまりにも早い結果に幸雄のショックは大きかった。
「人には分相応がある。何事もこらえるんよ。こらえるんよ!」
 幸雄は母の言葉を思い出しながら己に言い聞かせていた。
「どうして」
「好きなんかどうか解からんの」
 順子は白い頬を少し赤くして照れくさそうにはにかんで云った。
「結婚したら好きになるよ」
 幸雄は順子の透き通った黒い瞳を見つめながら云った。
「そうかなあ……」
「ああそうだよ、皆迷いながら結婚するんだよ。本当に好きで好きで堪らない人とは結婚出来ないんだよ」
 幸雄は自分に言い聞かせるように云った。
「そうかも知れないわね……」
 高校を出てから未だ三年幸雄も順子も二十一を過ぎたばかりだ。従業員三十人ばかりの小さな鉄工所に勤める幸雄には早くても結婚は四、五年先のことだった。だが朝が早く、夜が遅い村の有線放送のアナウンサーの仕事は順子には大変だったのかも知れない。結婚に逃げたい気もあったのだろう。
「結婚なんか止めろよ!未だ早いよ」
 そう云いたかった。でもそう云えないのが幸雄の性格だった。幾ら待ってもらっても今の安い給料では結婚できる先の見込みがある訳ではなかった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。直ぐ帰って来るから、その時は幸ちゃんのお嫁さんにしてね」
 可愛い片えくぼを見せて、何のけれんみもなく近所のスーパーマーケットに買い物にでも行ってくるように軽く云ってのける順子の心遣いも幸雄には残酷だった。しかし何故か心が弾んだ。
「何時までも待ってるよ」
 胸の奥にしっかりと言い聞かせた。だが裏腹に
「幸せになるんだよ」
 ありきたりの事しか云えない己が情けなかった。
その夜幸雄は何気なしに云った順子の一言が何時までも耳に残って寝付かれなかった。
「直ぐ帰って来るから,その時は幸ちゃんのお嫁さんにしてね」
 何度も何度も口の中で呟いた。呟いているうちに本当に直ぐ順子が帰って来るような気がして,幼かったころの思い出が走馬灯のように浮かんでは消えた
 幸雄と順子の家は二百メートルと離れていなかかった。小学校の運動場を横切り、神社の境内を走り抜けると綾川へと続く桜並木が参道の両側にあふれる.その手前に順子の屋敷がある。順子が女の子であるというだけで、何故か家に入りにくかったがおなじ学年であるというだけで特別扱いをされていた。屋敷の前を行ったり来たりうろうろして誰かに見つけてもらって中に入った。玄関の横手にはボケの花が咲き乱れ、土塀で囲まれた裏庭には木蓮の花が咲き誇っていた。その裏庭でママゴト遊びをしたり、物置小屋に忍び込んで隠れん坊をして楽しんだ。ある年の正月の終わりの頃だった幸雄たちが羽根突きをして遊んでいた。
「お腹空いたでしょ、お餅があるからいらっしゃい」
 順子の母が勝手口からさわやかな笑顔を見せた。
「はーい」
 幸雄は走り出していた。
「駄目よ幸ちゃん、手を洗わんと」
 順子が育ちの良さをみせた。
「そうね、先に手を洗いましょう」
 順子の母は白く細い手でポンプを押した。幸雄は手だけでなく青洟の出ている顔まで洗った。お皿に盛った餅は真っ白い砂糖に埋まっていた。敗戦間もない物資のない時代なのに何故こんなに白い砂糖があるのか不思議だった幸雄は自分の家で作ったサトウキビを搾って煮込んだ赤い砂糖しか知らなかった.それもめったにお目にかかる代物ではなかった。だから幸雄の家では塩アンがほとんどであった。
「これ、まんで食べてもええんか」
「ええ、ええのよ」
 順子の母は優しい目で云った。幸雄は餅を口いっぱいに頬ばった。幸雄は九人兄弟の六番目だった。幸雄の母は分厚い手でリンゴ一個でも子供の数に合わせて切り、貧しさを分け合った。幸雄は子供ながらも家柄の違いを感じ涙が出そうになった。
「どうしたん、喉に詰まったんか?そなんせくからや」
 順子は姉さんぶっていた。
「違うんや、がいに旨いけん喉が泣きよんや」
「そうやね、美味しいものはゆっくり味わって食べたほうがええわね」
 順子の母は優しく背中をさすってくれた。
 その翌年、幸雄が小学校五年の秋、本家に養子が決まり、その結婚式が挙げられた。婚礼の宴は三日三晩盛大に行われた。氏子総代を努める本家に宮司の娘である順子が招かれたのも当然だった。振袖姿に日本髪を結った順子は三味線に合わせて踊った。
「まあ、可愛い!」
「奇麗ねえ、人形さんみたい」
「よう、日本一!」
 やんやの喝采で三人の芸者の影が薄くなった.幸雄は正面でちょこんと座り、同級で幼馴染の順子かと信じられないと言った顔つきで見上げていた。三味線の音に合わせて無心に踊る順子が大人びて見え、急に大きくなったり、小さく小さくなって、遠のいて行った。
 昼と夜とは来賓が入れ替わる。その合間にお膳の用意をする。
「幸ちゃん、はよう、そっち持たんと」
 順子がお膳の片側を持ちながら幸雄を急かした。
「うん」
 順子と幸雄が二人でお膳を台所から座敷へ運んで行く。
「おう、おう,見てみい。まるで夫婦みたいやなあ」
 手伝いに来ている近所の主婦たちが囃し立てた.手伝い衆は一様に陳腐な二人を見て笑いこけた。
「幸雄、邪魔やけん,はよう家へ帰っとけ」
 着飾った順子に比べ、継ぎはぎの服を着ている幸雄の姿が母は恥ずかしかった。
「いやや、ここにおる」
 戸にしがみついて泣き喚く幸雄を母が太い腕で引きずって行こうとする。順子は訳が解からずキョトンとしていた。
「ええやないか,可愛そうにのう」
 本家の祖母が幸雄をかばった。
「はよう二人ともこっちへおいで、ええもんあげよう」
 祖母は幸雄の涙を拭いてやりながら二人を奥の間に連れて行った。
 祖母は大勢居る孫たちの中でも特別に幸雄を可愛がった。それには訳があった。本家の叔母には子供が生まれなかった。幸雄が生まれた翌年年子の妹が産まれた。妹に乳を飲ましている横で乳離れしていない幸雄がおぶ、おぶと乳をせがんだ。貧乏人の子沢山とはよく言ったもので本家とは対照的に次から次に子供が生まれ,貧乏が貧乏を重ね牛乳を買い与える金がなかった。
 祖母には四人の男と二人の女がいた。それぞれ世帯を持ち、大勢の孫が居たが皮肉にも本家の長男には跡取りがなかった。本家と幸雄の家は隣続きで祖母は毎日のように訪れ,子供たちを見ながら跡継ぎのないことを嘆いた。叔母はそれが悪口を言われているようで気にいらなかった。子供の出来ない負い目が幸雄の母への意地悪へと変化して母が何度か借金を申し込んだがその都度断られた。祖母はいずれ孫の誰かを養子にして跡を継がせたいと考えていた。いい機会が訪れたのである。
「幸雄が可愛そうやなあ、栄養不足で死ななええがのう」
「後先も考えずブツブツ豚みたいに産むからや」
「どないかのお、幸雄を養子にしては」
「あの女が渡さんでしょうが。いっそ知らん所から貰ろたほうが後腐れがのうてええわ」
「そやけどのう、やっぱり他人に遣るよりは血の繋がったもんに跡継いで貰いたいが」
「………」
 長男である伯父は無口な人であったが、伯母の性格から幸雄を養子にしてもうまくいかない事を知っていた。その矢先だった。同じ分家で次男である幸雄の父の直ぐ下の三男の嫁が急な病で亡くなり、十歳になる娘が一人残された。三男は未だ若く再婚することになった。残された娘が継子になるのは可愛そうだということで本家の養女になった。娘は花よ蝶よで育てられ、この時代では村では珍しく女学校まで卒業した。今日は皮肉にもその娘と養子の結婚式であった。そんな訳で祖母は一時は跡取りにと考えていた幸雄が不憫でならなかった。若し幸雄が本家の跡取りになっていたら幸雄と順子は氏子総代の子と宮司の娘と言う関係になり、本当の夫婦になっていたかも知れなかった。家柄なんか問題ではないと思いながらも、それを無視できない環境にあった。幸雄が養子縁組の話を知ったのは幸雄が高校に行かせてくれとせがんだ時であった。
「お前も本家へ養子に行っていたら、好きな学校へ行けたのになあ」
 溜息交じりに母がふと漏らした

  二

 翌朝幸雄は会社へ行くべく駅へ急いでいた。年の瀬も押し迫った冷たい早朝に順子が何か探し物をするように下ばかり見ながらやって来た。余程大事な物を探していたと見えて順子は幸雄に気づかなかった。
「おはよう」
「え、ああ、おはよう」
 順子はびっくりしたように云った。
「どうかしたんか?」
「いえ、何でもないの」
 順子はそそくさと去って行った。後で知った事だが外した指輪を紛失したのだ。
「指輪ぐらい又買ってあげるよ」
 婚約者の優しい寛容な一言で順子は結婚に踏み切った。
成人式の演劇発表会も無事終わり、順子は結婚式を目前にして準備に忙しくしていた春未だ浅き日,井上先生から電話があった。
「どうですか、心の準備は出来ましたか。深く考える事はありませんよ。普通にやって行けばいいんですよ。独身最後の思い出に飯盒炊飯に行きませんか」
「飯盒炊飯、何処で」
「坂出の沖にある小さな無人島でね、気分転換にはいい所ですよ」
「そお……他に誰か行きますの」
「女の子一人と男の子が六、七人なんですけどねああ……幸雄君も行きますよ」
「ええ、本当!幸ちゃんも行くの。どうしようかなあ……」
「女の子一人じゃ淋しいから行きましょうや」
 順子の胸の中に何かしら煮え切らないものが渦巻いていた。幸雄と顔を合わすのが辛かった。一方で会いたいという気持ちが交差した。今会わなければ一生会えないような錯覚にとらわれた。楽しい新婚生活が待っているのに割り切れないものがあり、だがこのまま黙って結婚すれば何時までも喉に小骨が刺さったようなわだかまりが残ったままになる。
「そうね……」
 考えあぐねた順子は幸雄にぶち当たってみようと思った。会えばわだかまりも消えるかも知れない。
「じゃ、行きます」
 その日は朝から良く晴れた絶好のサイクリング日和だった。小川の猫柳が可愛く膨らむ田舎道を唱歌を歌いながら坂出港まで走った。坂出港から小さな漁船をチャーターした。船底にゴザを敷き船縁に凭れて向かい合わせに座り込み足を伸ばした。心地よい潮風が頬をなぜ順子の黒髪を靡かせた。幸雄の伸ばした足を順子の足がが突付く。幸雄が引っ込める。幸雄の足が順子の足を突付く。順子が逃げる。笑いこける全員。坂出の町が遠くなって霞んで行く。
「このまま海の果てまで行きたいわ」
「そうだな……」
「恋しい彼氏が待ってるんだろ」
 誰かがその場を和らげようと冷やかした。
「ええ、待ってるわ」
 全員が笑いこけた。ガ、幸雄は笑えなかった。順子は背を向けて遠くの海を見つめていた。
 漁船は幸雄たちを降ろしてポンポンと軽やかな音をたてて島を離れて行った。
「三時頃迎えに来るよ!」
 船の上から船頭が怒鳴った。
「幸雄、米洗っておけよ、薪拾ってくるよ」
「ああ、冷たい」
 順子は小さい岩の上から海水を飯盒に汲み取っていた。
「落ちるなよ」
「大丈夫だよ」
 順子は幸雄を見上げて笑った。幸雄も横に並んで米を研いた
「幸ちゃん、結婚することに決めたの。ごめんね」
順子は自分に言い聞かせるように云った
「え、ああ、俺頼りないから……幸せを祈ってるよ」
「ありがとう」
 岩間を利用して飯盒三個を吊るし火を点けた。島は他に人影はなく、松林に覆われていた。てっぺんまで駆け上ったが何もなかった。島中を子供のようにヤッホーヤッホーと叫びながら走り回り腹を空かせた。
「自然の中で食べる飯は旨いなあ」
「ほんまに美味しいわ。特に塩水で洗ったのが良かったのよ」
 肉や魚の缶詰と梅干とたくあんだけだったが、皆ガツガツ食べた。
「幸ちゃんリンゴ食べる」
 順子が可愛い手で奇麗に剥いてくれたリンゴの甘酸っぱい片思いの味を幸雄は何時までも忘れることはなかった。
 翌春桜の花も散りかけていた日曜日、幸雄は遅い朝食をとっていた。母が何か落ち着かない様子で買い物から帰ってきた。
「順子ちゃんが流産したんやって。可愛そうにのう」
「流産したって、なんでや」
「最初の子はよっぽど気つけんとなあ」
「どないなっとるんや」
 幸雄は箸を投げ出して裏の川の方へ走り出していった。一気に雑木林を走りぬけ川原に降り静かに流れる川面に石を投げた。
「畜生!何で流産や。順子は幸せやないのか諦めきれない俺が近くに住んでいるから順子の家庭がうまくいってないのだろうか?」
幸雄は呆然と淀むことなく流れる水の流れをじっと見詰めていた。崖の上の吉野桜がそよ風に揺られて花びらを川面に散らしている。花びらは幸雄の心を慰めるようにゆっくりと流れていく。
 三

 故郷に川が流れる。綾川は幸雄たちの集落を母親が白い腕で子供を抱くように半周する形で、のんびりと、時に激しく、又優しく流れていた。岸辺に四季折々の花が咲き乱れ、草木が萌え立ち、若鮎が踊っていた。幸雄も順子も故郷の川にいとおしく育てられた。順子の家の前の桜並木を通り過ぎ、石段を降りると眼下に綾川渓流が広がる。左に真っ白いアーチ橋。正面から右に象岩など大小の岩が点在し或いは両岸から突き出し、真ん中を渓流が帯を引く。向こう岸には桜のパノラマが展開し。春風に花びらが乱舞して静かに川面に浮かぶ。花びらは何処へ流れて行くのか。アーチ橋の少し下流から低い堰が設けられ、岸沿いに細い水路が続く。その先に無限級数を追い求めるようにのんびりと大きな水車が回り続けた。順子はこの水路でよく小声で‶春の小川″などを口ずさみながら洗濯をしていた。幸雄には天女が舞い降りて羽衣を洗濯しているように見え、春の太陽に似て眩しかった。何か気恥ずかしくて声を掛けることも出来ず岩から岩へ走り回るだけだった。時たま順子から呼び止められることがあった。
「幸ちゃん、搾るん手伝って」
「あ、俺細いけん力ないんや」
 手伝いたい気持ちと裏腹の言葉がつい口に出る。何事にも自信の無さが照れ性になって現れた。
「俺、手伝ってやる」
 又しても上級生の要らざるお世話であった。幸雄は象岩の方へ走って行き、大きな象岩の上にふて腐れたように大の字に寝転がった。空にはぽっかりと一つ白い雲が浮かんでいた。
「オおーい雲よ、お前も一人か」
 なぜか急に訳の分からない涙が滲んだ。心地よい春風がそっと涙を拭って行った。
 幸雄の家から北へ百メートルも行くと雑木林が岸辺を覆い、細い道を駆け下りると綾川渓渓流が七、八十メートル毎に何度も鍵型に屈折し曲がり込んでいる川原に出る。広い川原に下り、細い流れ橋をトントンと渡ると向こう岸の竹やぶが途切れて長い谷間になっている。谷間にはレンゲやタンポポが咲き、土筆や蕨、イタドリが採れた。谷の横の道を上って行くと母の実家がある。何時か母が作った柏餅を持って行く途中この谷間で遊びに夢中になり柏餅を無くしたことがあった。
「幸雄、お前タヌキに取られたんや。ハハハア幸雄遊びにばっかり夢中になってたからタヌキに化かされたんや」
 祖母は大声で笑った。居りもしないタヌキのせいにして泣きべそをかいている幸雄を思いやり、嗜めた。
「ほんまか、ほんまにタヌキがおるんか」
「ああ、居るよ。母さんの言うことを聞けへん子は化かされるんや」
「……」
「幸雄は母さんの言うことちゃんと聞くもんな。ほら、駄賃上げよう」
 幸雄は怖くなり小遣いを奪い取るようにして走って帰った。
屈折した所は全て岸壁になっており、水流がドーンとぶっつかり岩や川底が抉られ深くなっている。直ぐに浅瀬になり、又ドーンとぶっつかり深くなり浅瀬に成るの連続である。深い所にはフナやナマズが、浅瀬にはハゼやアカマツ(ウグイ)や鮎が居た。岸壁にはあちこちに細い穴があり中にはウナギやモズクがいた。
 幸雄は夏が来ると午前中は野良仕事を手伝い、昼からは毎日のように近所の男の子たちと川に走った。途中、時たま近くの畑でトマトやスイカを失敬することがある。冷たい川に投げ込み冷たく冷えるのを待つ。
「よーし、ハエ取り瓶持って来い」
「ハイよ」
「よく見てろよ。水を少し入れて米ぬかを入れる。こいつを手のひらで上の口を塞ぎ逆さにしてよく振るんだ。よし皆着いて来い!」
 ぞろぞろと上級生の後に着いて浅瀬に向かう。
「この辺でええやろ。腰ぐらいの深さでなるべく岸辺の近くだ。魚の通り道になっている。ここへこのまま穴の大きいお尻を上にしてゆっくりと空気を抜きながら沈める。水に流されないぐらいに砂で埋めるんだ。解ったか」
「うん」
「よーし、三十分くらい近寄ったらいかんぞ」
「あっ!又女の奴が来たよ」
「よーし、みんな隠れろ」
 五、六人の女の子は素早く水着に着替えて浅い川にキャアキャア騒ぎながら飛び込んでいった。
「おい幸雄、順子の服取って来い」
「え、なんでや」
「なんでもええから、取ってくるんだ!」
「……」
「何ぐずぐずしてるんや、お前順子が好きなんやろ。はよ取って来い」
「何を言ってるんだ。自分の方が好きなんやろう……」
 と言いたかったが、幸雄は上級生には文句が言えなかった。嫌々であったが何かゾクゾクするものを感じた。背をかがめてそっと近づいて行った。粗雑に脱ぎっぱなしにしているなかで奇麗に折りたたんである順子の服は直ぐに判った。
「よし、ここへ持って来い」
 上級生は砂の中へ埋めてしまった。
「さあ、泳ごうぜ」
 岩の上から飛び込んだり、鬼ごっこをしたり、冷えたトマトを奪い合ったり時間を忘れて川の流れに戯れた。
「もう、魚入っとるかな」
「おお、そうや、上げに行くぞう」
 芳しい米糠の香りに誘われたウグイの群れの中にハえ取りビンは埋もれていた。砂に埋めたビンの口の下に手を差し入れ口を塞いで持ち上げた。ビンの中はウグイで真っ黒である。
「うわぁ、凄いや!」
「ごっついのお」
「バケツや、早くバケツ」
 ビンのウグイをバケツに流し込んだ。バケツの中ほどまでウグイで埋まった。皆はしゃぎまわってバケツの周りを駆け巡った。
「よーし、もう一回やるぞ」
同じようにハエ取りビンを砂に埋めた。
「あ、女の奴帰ってるよ」
 女の子たちは二つある右側の広い坂道を登り始めていた。順子は水着のままだった。
「順子の服どうするん」
「幸雄、お前返して来い」
「なんでや、俺ばっかり┉┉」
「お前が取って来たんやろう」
「だって……」
「ぐずぐずしてたら帰ってしまうぞ」
 幸雄は順子の服を持って追っかけて行った。
「これ」
 幸雄は服を渡そうとした。
「そんな砂だらけの服いらんわ」
 恨めしそうに順子は睨んだ。順子の小さい胸の膨らみが震えていた。
砂を払い落として再び渡そうとする。
「家まで持ってきて!」
 幸雄は順子の後に従った。溺愛されて順子自身が気づかない我儘も幸雄には何かしら心地良かった。順子の甘えに思え,順子との距離が近くなった気がした。まさか少年の小さな子の悪戯が数分後に逆の結果になろうとは幸雄は勿論順子にも想像出来なかった。
「どうしたんな?二人ともみっともない格好して……」
 目のやり場に戸惑いながら出迎えた順子の母は怪訝そうに聞いた。改めて見ると順子は薄い水着、幸雄は小さな褌だけだった。
「幸ちゃんが服隠したん」
「違うよ、取って来い云われたけに……」
後ろめたさからか語尾に力がなかった。
「幸雄さんは卑怯よ!人に言われたからって何でもしていいの。いたいけな女の子を苛めるなんて男の子がすることじゃないわ。順子はお父さんが居ないのよ、順子が苛められていたら助けてくれると思ってたわ。御免なさいも言わないで……見損なったわ!」
 順子の母は一気にまくし立てた。幸雄を可愛がっていただけに余計に腹が立った。気迫に押され幸雄は何がなんだか分からなくなった。何故幸雄一人がこんなに怒られるのか理解できなかった。兄弟の多い幸雄の家ではこんな悪戯は日常茶飯事であった。住む世界が違い過ぎた。それ以来幸雄は順子の家に遊びに行くことは無かった。怖いものから逃げただけで自省することをしなかった。しなかったと言うより物事を思慮することの出来ない性格だった。奇麗に言えばあまりにも純情過ぎた。幼稚過ぎた。

  四

 水の流れを逆行させることは誰にも出来ない。幸雄は何度もこの川の流れに逆らい自らを深淵に引きずり込んだ。その度に故郷の川は優しく救い上げてくれた。もうこれ以上流れに逆らう事は出来ない。川を汚すことは神が許さない。俺が未練たらしく何時までも順子を待っているから順子は流産したに違いない。順子をこれ以上苦しめられない。順子自身も責任を感じ夫に尽くすだろう.危機を糧に本当の夫婦愛が育つに違いない。もう四郎の出番はない。何処かへ行こう。俺が愛した順子も故郷も捨てよう。
「お前がそんなに順子ちゃんを好きだったなんて知らなかったよ」
四郎が大阪に行くと話を切り出したとき母は怪訝そうな顔をして反対したがおよその見当はついていた。
「母さんは知らない振りをしてたんだ」
そうかも知れないね、でもその方がお前の幸せになると思ってた」
「もういいよ、俺はここを出て行くよ」
「そうだね、それが良いかも知れないね。母さんが悪かったよ」
四月二十五日は滝宮神社のうそかえ祭りの日だった。
「祭りの日に行かんでも祭りが終わってでもええんやないか」
「順子ちゃんに会いとうないのや」
四郎は母が止めるのも聞かないで本家へ大阪に行く挨拶をしに行った。
 本家の伯父は祭りの前になると表でうそ鳥を作っていた。幸雄は芸術品を作っているような腕さばきに目を見張った。雑木林から樫の木を切ってきてチョンナ一丁でちょんちょんと小さな羽を作り、顔の部分をちょんちょんと削り、後は鋸で切るだけだ。細い鉛筆を大きなチョンナで削るより難しい技で羽の部分を削るのは名人技であった。幸雄はそれだけでも伯父を尊敬した。伯父は農家でありながら大工も左官もやっていた。
四郎は伯父の作業を見つめながら小さいときのことを昨日のように思い出していた。
「これ、何でうそ鳥って云うんや。スズメやツバメではいかんのか」
「幸雄、お前嘘ついたことあるやろう」
「嘘なんか、つかんわい」
「そんな嘘言うてたら地獄閻魔様に舌抜かれるぞ」
「嘘やないわい、嘘なんかつかんわい」
「そうか、じゃけんどちょっとは嘘ついたことがあるやろ。神さんはちゃんと見てるぞ」
伯父はちょっと驚かせた。
「ちょっとはなあ……ちょっとでも舌抜かれるんか」
 幸雄はべそを掻きそうになった。
「心配せんでええ、神さんはこの鳥で嘘を取って一年間の嘘を許してくれるのや。だからうそ鳥(取り)でなかったらいかんのや」
「ほんまか、そんならうそ鳥買う人みんな嘘ついてるのか」
「そうや、嘘つかん人間はいないなあ」
「みんな許されるのか……そんなら嘘つきの悪い人間ばっかりになるや」
「嘘と悪さは違うぞ。悪さは許されん。これからは嘘はつきませんと悔い改める者が許されるのや」
「ふーん」
 幸雄は何か変だなあと思いながら半分納得した。
 うそかえ祭りの日幸雄は息せき切って帰ってきた。
「母ちゃん、母ちゃん」
「喧しいなあ、どうしたん」
「小遣い」
「小遣い……祭りじゃ仕様がないの」
 母は棚の上の古びた整理箱の引き出しから財布を取り出し、小遣いをくれた。
「これだけ……」
「嫌やったら止めとき」
「これでいいよ」
 その頃毎日境内に紙芝居が来て黄金バットなどをやっていた。幸雄はそれを見たさに時々母の財布からお金を失敬して、水飴や味付け昆布を買った。母の財布は何時も薄っぺらで軽かった。だから今日も無理は云えなかった。境内には様々な出店が参道を挟んで立ち並び、その間を老若男女で賑わっていた。
「さあ、換えましょう、換えましょう。第二回目の抽選発表が迫っています。二回目のうそ鳥は後少しです。さあ買いましょう、買いましょう」
 高い松の木に取り付けられた拡声器が囃し立てる。常日頃思いを寄せている男女は他人の目を憚る事なく声を掛ける絶好のチャンスである。それぞれ奇麗に色付けしたうそ鳥を見て、スタイルがええのう。番号が悪いのうなどと付き合うきっかけを探っていた。三時間程度に区切って適当にうそ鳥を交換しあったところで抽選発表があり景品が当たる。幸雄はゴム風船に水を入れたヨーヨーと味付けしたイカの足を買った。長持ちするものばかりであった。後はうそ鳥一個分しか残ってなかった。
「幸ちゃん、うそ鳥交換せんのう」
 順子は両手にうそ鳥を持っていた。順子は学級のマドンナだった。丸い顔に目鼻がすっきりしていて白い歯を少し見せてはにかんだような笑顔が順子には良く似合った。髪の毛を少しカールして少女漫画に出てくる主人公のようだった。
「うん、未だこうとらん」
「次の時間の分買うねん」
「そう、私換えて来るわ」
 順子は群集の喧騒の中へ戯れていった。幸雄は順子と二人っきりで居たかったが留める勇気は無かった。祭りの賑やかさから一人取り残されていた。幸雄はコンクリートの欄干に凭れて順子を目で追っていたが、諦めたようにヨーヨーで時間を潰した。三回目の発売が始まった。幸雄は沢山並んでいるうそ鳥の前で贈り物でも選ぶように迷っていた。
「おい僕、未だ決まらんのか。どれでも同じやでえ」
「ええと、ええと、これにするわ」
 幸雄は羽の多い見栄えのいい重量感のあるうそ鳥を買って、得意そうに順子の後を追いかけて行った。
「幸雄うそ鳥こうたんか。換えてやるから見せてみい」
 上級生が呼び止めた。
「いやや」
 幸雄はうそ鳥を後ろに隠した。
「は半、順子と換えたいんやろ」
 上級生は無理やりうそ鳥を取り上げた。
「なーんやこれ、ぶっといのお」
「返して、かえせよ!」
「どうしたん?何かあったん」
 いつの間にか順子が来ていた。
「ああ、うそ鳥換えたいんやて」
 上級生も順子が好きならしく、赤くなりながら言った。
「ええわ、幸ちゃん換えよう」
「………」
 幸雄も照れながら黙ってうそ鳥を差し出す。
「なーに、これ?」
「ぶっとくて格好悪いやろ」
「俺、栄養不足で細いけん、太いのがえんや」
「幸雄、お前泣かっしょるのお」
「いややなあ、幸ちゃんバカなこと言わんときよ。うちが豚みたいやないの」
「違うよ、俺そんなつもりで……」
「もう、ええんよ。これ換えてあげる」
 幸雄は微かに残る順子の手の温もりを感じながらしっかりとうそ鳥を握り締めていた。年に一度のうそかえ祭りは幸雄と順子の七夕だった。境内のコンクリートの欄干に凭れて笑いこける二人の姿が高校を卒業するまで見られた。

うそかえ祭りの日四郎は朝早く出掛けることにした。
「親父行くわ。身体気つけや」
 縁側でタバコを吸っていた父はポンとキセルを叩いて
「そうか、行くか」
 一言云っただけだった。幸雄の後姿を見送りながら小さく呟いた。
「馬鹿な奴や……」
 母は荷物を持って駅まで見送りに来た。
「身体に気付けよ、困ったら何時でも帰って来いよ。これ帰る時の船賃や」
 泣きながら母は幸雄の内ポケットにお金の入った封筒をねじ込んだ。
「父さんには内緒やから………盗られんように」
 電車が動き出しても母は何時までもじっとホームに立っていた。連絡船に乗り継いだ幸雄は甲板から小さくなって行く高松の町並みや故郷の山々を見つめていた。銅鑼の音は物悲しく幸雄を感傷的にした。下を見ると連絡船の航跡が何処までも着いて来る。故郷が遠くなる。

  五

 幸雄の家は田舎の小さな町を少し離れた高台にあった。裏側に綾川が流れ、表に出ると高鉢山を正面にして左右に両手を広げたように連なる讃岐山脈が見守っている。雨の少ない温暖の地である。高台にある幸雄のところの畑は元々竹林だったそうで、砂地でモグラの穴が多く幾ら水を入れても直ぐに漏れて水田には適さなかった。やむなく桑畑にして養蚕をしていたが日照りが続き桑の木は枯れてしまった。次にブドウ畑にした。やっとのことでブドウが実った。収穫したブドウを父が天秤棒で担いで売りに回った。未だ青果市場が近くに無かった頃だ。
「ブドウは要りませんか」
 唯これだけのことが内気な父には言えなかった。一日中担いで回るだけでほとんど売れなかった。
「たったこれだけしか売れなかったん」
「ごちゃごちゃ云うな」
「母ちゃん腹へった」
「なんか食べるもんない」
 小さい子供たちが母にまとわりついた。結婚して直ぐ次々に子供が生まれ母のお腹は空いた間がなかった。
「うるさい!」
 父のごつごつした手が幸雄に飛んだ。
「うわん!お父はんなんか帰ってこんでもええんや……うわん」
 泣きじゃくりながら幸雄は寝入った。どんなに悲しくても苦しくても子供は無邪気である。幸雄は夢を見ていた。
 大きなブドウの木のある中州の周りに堀を巡らし、錦鯉や亀が泳いでいた。堀の周りのブドウの木にもたわわに大きな実が垂れ下がり、地面には季節の花が咲き乱れている。中洲には石の太鼓橋が架けられ、大きなブドウの木の下で幸雄と順子は本を読んだり、鯉に餌をやったり、亀と戯れていた。
たわいない幸雄の夢も一夏で吹っ飛んだ。
「あんた、ラジオで台風が来る云うとるんや。ブドウの棚もうちょっとガイにせんと!」
 母が金切り声を挙げた。
「わかっとるわ、材木も針金も無いのにどうやってせい云うんや」
「材木買うぐらいの金、本家の兄さんにたのんだら」
「兄貴に頭下げろ言うんか」
「そんなこと云うてる間があったら早よ行かんと。台風は待ってくれへんのよ」
 父は渋々本家へ出かけて行った。子供のいない本家の伯父は勢い選挙や博打にのめり込んでいた。四〇キロもある高松の競輪場へ自転車に乗って平気で出掛けて行く。今日も大敗して帰ったところであった。機嫌は良くなかった。タイミングが悪かった。父は空気を察して帰ろうかと思ったが母の金切り声を思い出し、ぐずぐずしていた。
「どうしたんや、お前が家に来るなんて珍しいやないか」
「パンクか
「おお、泣きっ面にパンクや。ついとらんわ」
「押して帰ったんか?自転車屋あったやろ」
「うん……あったよ、簡単に直せりのにもったいないやないか」
 伯父は博打には大金を使うが電車賃など変なところにケチった。チューブを洗面器の水に浸け、空気の出ている穴を探しながら伯父は父を見上げた。
「一体何の用事や?」
「いや、何でもないんや……台風が来よるのお」
「おお、来るらしいのお。だいぶ大きいらしぞ」
「ブドウの棚が落ちへんかと思うんや」
「落ちんようにせんかい」
「太い針金がないんや」
「金物屋に売っとるやろ」
「……金がないんや」
「なに!金が無い。それで金せびりに来たんか」
「いや、ちょっと貸して貰えんかと……」
「お前ナあ、針金買う金もなしに、ようブドウ作るなあ」
「………」
「子供でもそうや、なんぼ産めや増やせの時代や云うても計画ちゅもんがあるやろが、他にすることがないんか。なんでもきちっと計算してやれよ」
「説教聞きに来たんやないわい。計算して子供が産めるか、もうええわい」
 おとなしくて他人には物も言えない父が兄に対して見事な啖呵を切って背中を向けた。気の短い思慮のない幸雄の性格は父親譲りらしい。
「金いらんのか」
「いらんわい!ごちゃごちゃ云われてまで金欲しいないわい」
 興奮して赤い顔をして帰った父は黙ってどぶろくをコップに注いだ。
母は甲斐性のない父や本家のやり方に、云ってもどうにもならない事はわかっていながら一頻り文句を並べずにはいられなかった。父は何かぶつくさ云っていたが母の戯言に堪忍袋の尾がぶっ切れてコップを投げつけた。母は諦めたように仏壇の前に座り重労働で一番最初の子を流したことを思い出していた。あの時離婚していればこんな苦労はしないで済んだかも知れない。母の嫁入り前実家は風呂の灰が風にあおられ納屋から母屋まで丸焼けになり、牛一頭を引っ張り出すのがやっとだった。気の進まない結婚をし、実家に金を借りに行くことも出来ない己の身の上が情けなかった。唯々神仏に何事も無く台風が通り過ぎるのを祈るのみであった。
 だが、台風は一晩中吹き荒れブドウの木は見事に折れ棚は落ち、手の付けられない有様である。父はブドウ畑に諦めと怒りの火を放った。台風一過の青空に幸雄の夢と共に黒煙は舞い上がっていった。


  六

 人の一生にはちょっとしたことから大きなミスを招くことや、どうしようもないアンラッキーに襲われるものである。だが悲運に立ち向かう者には必ず幸運が訪れる。幸雄の父も明治生まれで第一次、第二次世界戦争を経験しながら幸いにも年齢の狭間に当たり兵役を擦り抜けたのである。兵役に採られ男手のない家庭が増えたが、兵役を逃れた父はブドウ畑の後に葉タバコを植え、又小作人として少しづつ田畑と子供を増やして行き八反歩になった。戦後占領軍の指導により小作人制度がなくなり土地は父のものとなった。しかし無償ではない。買い取らねばならなかった。一度に支払う程の大金があるわけがない。それから十年余に亘って九人の子供全員の全ての希望と夢が犠牲にされ、日夜に及ぶ強制労働が土地の代償になった。果たして本当に政府が言うように安かったのだろうか。
 中学生になった幸雄と順子はA組みとC組みにわかれ、自然と二人の間は遠ざかっていった。いや、むしろ意識的には近づいたのかもしれない。男と女、異性を意識すればするほど二人は口を利かなくなった。通信簿が成績表になりテストの生点で成績順が記されるようになった。その成績順で主要四科目は暮らす編成された。順子は勿論四科目ともAクラスだったが幸雄は三科目のみで国語はBクラスだったが直ぐにAクラスになった。幸雄は国民学校一年生の時成績優良賞を貰ったがその後は泣かず飛ばずだった。勉学の意味も解っておらず、宿題意外は家出教科書を開いたことはなかった。勉学の面白さを教えてくれたのが幸雄の受け持つになった新任の男先生だった。幸雄と同じように痩身で体型が似ていたこともあったが活発で何事にも恐れずぶっつかっていく新任らしさが幸雄を勉強する気にさせた。クラブ活動でも男先生の指導するバレー部に入部し、日が暮れるまで男先生の打ち込むボールを拾いまくった。だが一週間も続かなかった。父が運動場まで呼びに来た。
「幸雄何時まで遊んでいるんや。
「はよう帰って田んぼへこんか!」
 父には勉強もクラブ活動も単なる遊びに過ぎなかった。幸雄は図書館へ逃げ込んだ。いくら父でも教室の中までは追って来れなかった。エジソン、野口英世等の伝記物に始まり、長編小説の宮本武蔵、真実一路、路傍の石等の小説を読破していった。皮肉なことに父のお陰で図書館に追い込まれた幸雄は物語が好きになり、活字と生涯付き合うことになった。父が幸雄に与えたものがもう一つ健脚があった。幸雄の家の足踏み脱穀機は型が古く大きく重かった。秋の取り入れ期には学校も休みになり朝から足がパンパンになるまで脱穀機を踏み続けた。農作業で鍛えた健脚は校内の千五百メートル競走で一位にした。
「お父さん、幸雄が一等になったよ」
 母が自分のことのように喜んだ。
「足が速くても飯が食えるか」
 幸雄が夜勉強していても父は電気代がもったいないと言って電灯を消した。
「勉強せな何にもなられへんや」
「手に職をつければ食いっぱくれがないんや、職人には学問はいらん」
「親父みたいには成りとうないわい」
「生意気言うな」
 直ぐに父の拳骨が飛んできた。そんな父だったが高松工芸の定時制を嫌がる幸雄を全日制の主基高校に転校することを許し、幸雄と共に校長に頼みに行ってくれた。保健婦の姉の勧めで昼間は職業安定所の建築家に、夜間は高松工芸高校の定時制に入学したが不器用な幸雄は大工が厭で堪らなかった。おまけに男子ばかり息が詰まりそうになった。幸雄は次第に学校行かなくなり市立図書館に篭るようになった。皆胸を弾ませて希望の高校に通っているのに自分ひとりが取り残されて落ち込んでいた。受け持ちの先生が心配して家庭訪問に来たが転校を譲らなかった。その頃入試は全日制も定時制も県下一斉同じ試験問題であった。幸雄の進学適正試験が好成績であったため就学日数に問題があったが転入が許可され、再び順子と再会した。
 折角無理押しして転校し主基高校であったが大学進学を目指すクラスメイトの中にあって又一人孤独に追い込まれた。経済的に大学に行かせてくれとは口が裂けても云えなかった。目標のない幸雄は何のために勉強するのか分からなくなった。大海に浮かぶ小船のように荒波に飲み込まれもがき苦しんでいた。どんなに苦しくても退学は親の手前出来なかった。成績は何時も下位にいた。お情けで卒業させてもらったようなもので、自分で職安に行き小さな鉄工所の検査係を勤めていた。
 幸雄は愛する人と慈しみ育ててくれた故郷を後に海を渡った。
「親父、俺がんばるからな」
 春の海の風は強く、幸雄の頬に流れる涙を吹き飛ばし航跡の中に掻き消していった。

  七

 故郷を捨てて三十年、幸雄は都会の片隅でささやかな家庭を持ち、平穏に暮らしていた。二人の息子に恵まれそれぞれ問題を抱えながらも独立していった。
「え、母さんが入院したって?」
「直腸ガンらしいわ」
「なに!ガンやて」
「発見が早かったけん手術も簡単に済む云うとるけんわざわざ大阪から帰ってこんでもええよ。お母さんも知らすな云うとるんや、わそやけど何かあったら困るけん一応知らせとくわ」
 電話の向こうで義姉は帰って来なくてもいいと言ったが幸雄は直ぐにでも飛んで帰りたかった。生憎夫婦二人の活版印刷は納期に追われていてどうにも身動きが出来なかった。頑健な心身を持つ母はちょっとの事ではへこたれないだろう。幸雄は勝手に都合のいい解釈をし無事を祈った。数年前うどんを茹でていて湯で湯が庭にこぼれているのに気づかずうどんを持ったまま後ろ向きに転び骨折した。その時も母は朝から歩け歩けで克服した。だが、八十七歳という年齢で手術に耐える体力が残っているだろうか。医者の判断に任せるしか方策がない。
 医者もびっくりするほどの体力で母は手術に耐えた。幸雄の心配も幸い取りこし苦労に終わったが仕事に一区切りつけ母の見舞いに帰った。
「母さん元気そうじゃないか、顔色も良いし」
「何しに帰って来たん」
「母さんの顔が見たくてなあ、何時も元気な母さんが入院したって聞いたらびっくりするよ。がいに心配したけど顔見て安心したよ」
「義姉さんも電話なんかせんでも、もう直ぐに退院するんやから」
「そんなに慌てんでも、ゆっくり休んだらええわ」
「早ようタバコの葉もがんとなあ。こんなとこで何時までも寝ておれんよわ」
 母は八十七になっても一家を仕切っているつもりだった」
「母さんの代わりに俺が二、三日手伝って帰るよ」
 翌日幸雄は何十年ぶりかでタバコ畑に入ったが一日で音を上げて大阪に帰ることにした。高松まで来てジェットラインの出港時間が変わっていることに気づいた。一時間の時間を持て余した。玉藻城の前をぶらぶらしていると公衆電話が目に止まった。公衆電話の前を行ったり来たりして迷ったが思い切って順子に電話をする事にした。電話帳を捲り番号を押していった。指が震えているのが自分でも分かった。
「もしもし……」
 声が上ずっていた。運良く順子が電話に出た。
「順子さん?幸雄です」
「え、幸ちゃん!今何処?会いたいわ」
「高松、ジェットラインの待ち時間があったからどうしているかなあと思って」
「もう帰るの?会いたいわ」
 何かあったのか順子はいやに興奮していた。
「直ぐに帰るから幸ちゃんのお嫁さんにしてね」
 順子が云ったことを幸雄は思い出していた。
「お盆に帰って来るから何処かへ行こうか」
「今から決めとくの、二ヶ月もあるのよ」
「順子は映画が好きだったよなあ、映画見に行こう」
 高校時代アーチ橋の横手に田舎にしては珍しく寿劇場と巽映画館の映画館があった。幸雄も勉強もせずバイトのほとんどを映画鑑賞に使った。
「何があってもほっといて行くわ」
「じゃ、八月十五日のお昼の一時に瓦町の駅で待ってるよ」
「楽しみや和ね。必ず行くわ」
「八月十五日のお昼一時だよ。もう電話しないから忘れないで」
「八月十五日の一時、瓦町ね。覚えとく」
「じゃ、元気で」
 三十年前の落ち込んだ気持ちと違ってうきうきした気分で高速艇に乗った。
 二ヶ月間は長かったがどんな話をしようか、いろいろ空想してあっという間に過ぎた。約束の日が近づくにてれて幸雄の夢は大きく膨らんだ。当りもしない宝くじを買った時のように一億円が既に手中に収めたような錯覚に陥っていた。
 八月十五日、父の墓参りに帰省していた幸雄は妻を高松の実家まで送り、再び滝宮に帰ることにしていた。ガ、瓦町の駅近くのパーキングに車を預け映画館の立ち並ぶ常盤外をうろうろしていた。腕時計の時間を気にしながら映画館の看板を見て回った。何処かで順子と昼食をして映画を見よう。五十才の男が生まれて初めてデートをするようなウキウキした気分で駅に向かった。
「会いたいわ、何があってもほっといて行くわ」
 順子に会える。どきどきしながら改札口の横で」順子を待った。一時五分前の電車がホームに入ってきた。乗客がぞろぞろ降りて来たが順子の姿は最後まで見つけることが出来なかった。支度に時間が掛かって乗り遅れたに違いない。三十分後の次の電車が到着し乗客を降ろし、扉が閉まったが順子の姿はホームに見当たらなかった。
 幸雄は天国から地獄へ突き落とされていた。腹立たしいよりみすぼらしく情けない男が居た。幸雄は泣くに泣けなかった。五十を過ぎても女心は分からなかった。何事にも律儀で絶対に約束は破らない、冗談も通じない妻とはあまりにも違い過ぎた。妻の実家は瓦町の直ぐ東側にある。目と鼻の先で妻を精神的にでも裏切ろうとした幸雄に天罰が下った。
 赤飯の握り飯を買って幸雄は一人で映画館に入った。握り飯をかじりながら続赤毛のアンを見ていた。幼友達の男を振り回すアンが順子とダブって憎らしく悲しかった。

  八


 翌年梅が膨らむ寒い日、高校時代のクラス会を大阪ですることになり、幸雄は恩師と順子たち女の人を新大阪の駅へ迎えに行った。三十分余りかかる会場へタクシーで行くことになり、偶然か故意か幸雄と順子は相乗りになった。気が引けて幸雄は順子の横に乗らずに助手席に座った。この時点から二人の間はますます険悪になった。車の中でもほとんど口を利かなかった。会場でも恩師との話しに夢中になったり、他の女の人とジュエットしたりして順子を無視する結果になった。幸雄がトイレに立った間に順子は居たたまれなくなったのか途中で、暗く寒い風の中を一人で帰って行った。そんなつもりじゃなかたんだ。久しぶりに元気な順子に会えてどんなに嬉しかったか、せめて優しい言葉の一つでもかけてやればよかったのに、それが出来ない依怙地な己が情けなく順子に詫びたい気持ちでいっぱいだった。
 十一月下旬だった。恐れていた事がとうとう来た。義姉から電話があった。
「もしもし幸雄さん、母さんの病気が再発したの」
「何、再発?発見が早かったから完全に治ってたのと違うんか」
 幸雄は一瞬医者にも己にも腹が立った。医者に病状をよく聞くべきだった。母の顔色につい騙された自分が軽率だった。
「検査の結果が出んと判らんけど、もう一度手術することになるかも知れん」
「そうか、八十八で又手術するのか。大丈夫かなあ」
「大丈夫よ。母さんはしっかりしてるから心配しないで」
「姉さんには何時も世話になるなあ」
「世話だとは思っていないよ。親子だもん」
 義姉は小さいとき実母を亡くしていた。だから四〇年前嫁いで来たときから本当の母のように思ってきた。母も近くに嫁いでいる娘達より義姉の看護を喜んだ。
「じゃ検査の結果知らせてよ。顔見に行くから」
「ああ、それとなあ綾川の娘さんで嫁に行った五十二才の人が亡くなったよ」
「ええ、五二才┉┉俺と同じじゃないか。順子さんか?」
「……」
 義姉も幸雄が順子を好きだったことを知っていて、直接自分から順子さんだとは云えず暫く何も云わなかった。
「本当に順子さんが亡くなったのか。交通事故か」
「心臓発作でなあ。未だ若いのに可哀想に……」
 幸雄は一瞬自分の心臓が止まりそうになり、電話を切った。頭の中が真っ白になり、体中の血がさっと引いていくのが自分でも分かった。ふらふらと力なく倒れそうになった。
「あんた、どないしたん」
 隣で活字を拾っていた妻が心配そうに聞いた。
「いや……おふくろが再発したらしい」
「ええ、お母さんが再発、大変やないの。帰らなくてもいいの」
「ああ、検査の結果が出たらなあ」
 妻が買い物に出かけた。幸雄は指が震えて仕事にならなかった。順子が心臓が悪かったなんて聞いたことがない。仮に悪かったとしても何とかならなかったのか。思い切って電話をした。お願いだから順子電話に出てくれ。無心論者の幸雄がこの時ほど神に祈ったことはなかった。
「もしもし××ですが」
 男の声だった。主人らしい。
「同級の者ですが奥さんは……」
「家内は亡くなりました。」
 あまり気落ちした声ではない。何故か腹が立ってきた。
「亡くなられた。本当ですか、何時」
「新嘗祭の手伝いに実家に帰っていたんですが、夜遅く酔っ払って帰って来て疲れたと言うとおったんですが、翌日朝急に苦しみ出して……心筋梗塞でした」
「心臓は前から悪かったんですか」
「いや、そんな事はありません」
「じゃ薬は持ってなかったんですね」
「ええ、なにぶん太っていたからね。血圧も高かったんじゃないかね。」
「そうですか、どうぞお気を落としませんように……」
 割り切れない気持ちを抑えたまま電話を切った。
 夜ベッドに入った幸雄は布団を頭まで被り、頭を抱え忍び泣いた。
「何故なんだ。順子が何を悪いことをしたと言うのだ。神も仏もないものか」
 幸雄は身もだえして悔しがった。順子はもうこの世に居ないのだ。あの笑顔に再び出会うことはできない。悲しさと侘しさが次から次へと覆いかぶさってきた。
「俺が傍についておれば何とか出来たのでは……」
 妻は幸雄の泣いた顔を見たことがない。薄情者だと言ったのにこれ程涙があるかと思われるほど涙が後から後から流れ出た。
「ちょっと行って来る。直ぐ帰って来るから幸雄さんのお嫁さんにしてね」
 順子のバカヤロ!あの約束はどうなったんだ。何故生きることを諦めたのか。順子の帰る道を幸雄が閉ざしたのだろうか。二月のクラス会の時優しい言葉を一言でもかけてやればよかった。今更後悔してもどうしようもない。高血圧なのにお酒に逃げ朝血圧高になり心筋梗塞を招いたのだ。順子を追い詰めたのは俺なのだ。幸雄は何時も肝心なところで勇気のない己を責め、どうしようもない人の世の哀れ、命のはかなさに咽び泣いた。
 

  九

 母は再び手術をし、人工肛門をつけられた。人工肛門に頼らなければならない屈辱感に耐え切れず母は無理やり退院した。
「人を騙しよって、藪医者め!」
 担当医の往診も母は断った。
 正月に幸雄は母に会いに帰った。母は新築の奥の間で横になっていた。思ったより元気であった。
「元気そうじゃないか、ベッド作って貰ったんか」
「起きるのが楽でいいわ」
「母さんもあれほど信心してたのになあ、えらいめに合わされるのお」
 母は四国霊場をご詠歌を唱えて巡業したり、弘法大師誕生地の善通寺に手伝いに行ったりしていた。
「でも母さんは幸せやったよ。九人の子供には苦労させたが皆元気に育ってくれて、それぞれいい家庭を持ってくれた。兄ちゃん夫婦もよう頑張ってくれて今じゃこの付近では一番の納税者や。お前には可哀想なことをしたのう。今やったら何処の学校へもやれたのにのう」
「時代が悪かったんだよ」
「何でもかんでも自分勝手に決めて失敗ばっかりして…… でも結婚して落ち着いてくれて安心したよ。本当にいい人に来てもらってよかったなあ」
「俺もこれで良かったと思っているよ」
 ガンは再発したら助からないと聞いていたが母も次第に弱っていった。年寄りだったので進行は遅かったが半年余り苦しんだが大往生した。その夜大勢の子供や孫が見守っていた。昏睡状態の母が突然目を覚ました。
「何をガヤガヤ云うとるのや、喧しくて死ねんやないか」
 大きな声で皆を叱った。そして大息をついた。
「うわあ奇麗、奇麗な花がいっぱいや」
 と、呟いて息を引き取った。
 父と母は九つ父が上だったが父が亡くなった年と同じ八十九才で旅立っていった。」
 故郷の綾川は府中ダム建設で塞き止められた。幸雄たちの青春は淀んだ水の底に埋没した。
 今年の夏幸雄は綾川の岸辺に眠る順子の墓に詣でた。
「どうぞ安らかにお休み下さい。青春をありがとう」

                                           「完」

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