ラッキーとあいつと妻(二)
二
年が替わり新しい年になっても例年になく暖冬が続いていた。未だ一月なのに春を思わせる暖かな火曜日の午後だった。あいつは暮れの大掃除の時ぎっくり腰を再発し、暫く休んでいたゴルフの打ちっぱなしに来ていた。
ラッキーの母さんの初音も工場跡地の草叢に投げ捨てられて、小父さんに締め出しをくって一年近くが過ぎていた。工場跡地はバブルが弾けて買い手がないのか未だに草ぼうぼうの更地のままだ。初音は脚の傷も癒えたが後遺症が残り、亡くなった爺さんと同じように歩き方が少し変だ。前からは気が付かないが後ろから見るとひょこんひょこんと愛嬌のある歩き方だ。初音は何時しか近くの雑種のシロと懇ろになり草叢で二匹の赤ちゃんを産んでいた。
草叢の中で初音は監視しているのか昼寝をしているのか時々薄目を開けてウトウトしている。ラッキーは母親の近くで機嫌よく兄とじゃれ合って戯れていた。あいつは道路を隔てたゴルフの練習場からゴルフバッグを引っさげて出て来た。余程ゴルフの調子が悪いのか車のトランクにゴルフバッグを収めても何かブツブツ云いながら案山子が酔っぱらっておどけた様な変な格好でスイングしていたが、何を思ったか急にトイレに行きたくなったらしく、道路を横切って草むらの方にやってきた。あいつは辺りをキョロキョロ見渡して人影がないことを確かめて前のチャックを引き降ろし淑女の目の前で立ち小便をやらかした。ラッキーはもう本当にびっくりして兄から離れた。用を済ませたあいつは何食わぬ顔で近づいて来た。
「何だ。子犬か!可愛いな」
あいつは生まれて一ヶ月ばかりの双子の兄を抱き上げた。
「う、ううー」
母親が唸り声を上げた。あいつは驚いて兄を放したが、母親が首輪をしてないのを見て
「野良犬か?」
そう云いながらどんくさいあいつに似合わぬ素早い速さで少し離れていたラッキーは抱かかえられ助手席に放り込まれた。青空駐車場に車を入れてあいつはラッキーを抱えて口笛を吹きながらご機嫌で帰って来た。
「おい、可愛いだろう」
あいつはラッキーを差し上げながら得意そうに妻に云った。
「どないしたん?」
活字を拾っていた妻は原稿とゲラ箱を棚に置きながら訝しそうに眼鏡越しにあいつを見ながら云った。
「どうや可愛いだろう。拾ってきたんや」
「拾ってきた?汚い!どんな病気持ってるかわからへんやないの」
<汚い!病気持ち!なんて事を云やがるのだ。勝手に連れて来やがって>
「早よ返して来て。近所の人にも迷惑でしょうが、泣き声がうるさって怒鳴られるよ」
「だけどなあ、こいつ可愛いだろう」
あいつは未練たらしくラッキーの頭を撫でながら
「子供たちも出て行ってしまったし、寂しいがな」
「それはそうだけど……世話するの大変なのよ。どうするの!」
それでなくても世間の人は皆汗を流して働いているのにあいつは妻を働かして自分は昼間からゴルフの打ちっぱなしだ。あいつに言わせれば自営業の特権だそうだ。時間を有効に使うんだとか云ってナイターが始まる頃になってテレビを観ながら印刷機械を廻し始める。機械の騒音とテレビの音が相乗効果をもたらして喧しいことこの上ない。近所迷惑も考えない自分勝手なあいつだが夜更けまで働いて納期だけはきちんと守っているから仕方がないかと何事にもきちんとしなければ気がすまない妻だったが大目に見ている。
それというのも今でこそ優雅にゴルフなんかやっているけどここまで来るのには決して平坦な道程ではなかったらしい。
妻があいつと出会ったのはあいつが高松の鉄工会社で待遇改善のため地方労働評議会と若い工員の間を走り回り、過去何度も先輩たちが失敗した組合を結成したのを手伝った時だったという。あいつは自分を犠牲にして若い工員たちのために戦った。待遇が改善され労使が一体となったが、あいつは睨まれ居づらくなった挙句に系列会社のアイスクリーム販売に回されたのだ。
アイスクリーム販売は地方に発送するため朝が早かったのを口実にして、田舎住まいのあいつは組合運動がきっかけで付き合っていた妻の近くのアパートに引っ越してきた。あいつは朝晩妻の家で食事をし、愛の交換日記なる小道具を使って男女の関係が始まった。だがアイスクリーム販売に回されて零下三十℃の冷凍庫の中の仕事で情けないことに痔を患い、あいつはとうとう会社を辞め故郷も妻も捨てて卑怯にも大阪に逃げた。
「あの男は一箇所で納まるような男ではない」
妻は二年後に母の反対を押し切ってあいつの後を追って四国の高松から大阪へやって来た。あいつの何処に惚れたのかわからなかった。何の能力も、取り柄もないあいつに何故引かれたのか自分でも分からなかったのかも知れない。
唯あいつの目は何時も弱者の視点にあったのは確かだ。それだけがあいつの取得だったと妻は言う。
だが、あいつらの甘い新婚生活も一年足らずで窮地に追い込まれた。
大阪に逃げたあいつは食品関係の三流の業界雑誌社に勤めていたが編集長と編集方針が合わず毎日のように揉めていた。あいつは結局雑誌社を辞め懇意であった営業の先輩と記者をしていた少し年配の三人で夢である新しい雑誌を作ることにし、なけなしの貯金を叩いて事務所を借りる段階になって記者をしていた年配者に金を持ち逃げされた。あいつはその鬱憤を晴らすかのように強引に朝晩妻を抱き快楽だけを貪り、己を誤魔化し苦痛から逃れようとしていた。無頓着なあいつは子供が出来るなんて事は露程にも思っていなかったのだ。折り悪く妻に月のものが一ヶ月も遅れていると聞かされ初めて事の重大さに気が着きやがった。八方塞だ。逃げ道がない。
妊娠検査薬もない時代新妻は先行きを不安視しながら診察台で股を開かされた。
「おめでとう。妊娠三ヶ月です。」
医師はニコニコしながら言った。子供を授かり天にも昇る嬉しさであるのに妻には地獄行きの宣言のように聞こえたのだ。誇らしげに診察台に上がり産むのと堕すには雲泥の差があった。診察台で股を大きく開き破廉恥な屈辱的な格好で赤子を堕すには耐えられないものがある。新妻も堕胎児の人権も人格も全く無視され蹂躙される。妻はそれだけはどうしても避けたかったようだ。
愛の結晶が実った。普通なら両手を挙げて祝杯ものだ。だが時期が悪かった。失業保険と妻のパートでどうにか飯を食っているあいつには弱り目に祟り目だったに相違ない。あいつは二進も三進も行かなくなっていた。
「あんた、どうしよう………ねえ、聞いてるの……」
「ああ、聞いてるよ………」
あいつは寝転んでポータブルラジオを抱え込み阪神巨人戦に夢中だ。まだ一般家庭にはテレビが普及してなかった。妻はラジオを取りあげスイッチを切った。
「おい、何するんや、今三宅が打つとこやぞ!」
「あんな小っちゃいボールに大の男が九人も十人も寄って集って何が面白いの!うちはな三っ日も四日も寝られてないのよ……産んでもいいの!」
妻は鳴き声で訴えた。
「おかしいなあ?何で出来たんやろ」
「何ですってうちが浮気でもしたというの!」
「そんなことは言うとらん、あんなことで子供が出来るのが不思議だと言ってるんや」
「あんたは何でもそうや。後先も考えずに突っ走るのよ!先の見通しもないのに会社辞めて挙句の果てはお金まで騙し取られてどうするつもりよ!」
「済んだ事は言うなよ。あの記者もよっぽど困っていたんだよ」
「済んだ事とは違うわ。あの時もいきなり襲って来たやないの」
「あの時ってなんだ」
「最初の時よ。交換日誌持って行ったらいきなり押し倒しんよ」
「おい、おい、いきなりとは人聞きが悪いなあ。お前が部屋に入って来たんだろう?」
「部屋ぐらい入るわよ。あんたを信用していたんだから、それをいきなり襲うなんて人権蹂躙よ」
「嫌なことを云うね。あれは男女の自然の成り行きだよ。好きだったから結婚したんじゃないか」
「そんな昔の事どうでもいいの.子供はどうするのよ」
「どうするってなあ……どうしよう失業中やしなあ」
<のほほんと暮らしている今のあいつには考えられない悲惨な時があったんだなあ>
こんな事なら雑誌社を辞めなければよかった。せめて辞める前に妊娠していれば編集長と喧嘩することもなかったろう。すべては後の祭りだ。計画性のないあいつは何事も裏目に出て後手後手に回った。益々落ちていくあいつがいた。妻のお腹は益々迫り出しあいつをいやがうえにも追い詰められていった。出産費用もなく、今居るアパートも新築なので子供連れは許されなかった。子供が生まれると出て行く契約になっていた。親子三人が住む家も無くなる。あいつは妻にせっつかれて已む無く腰を上げ小さい業界新聞の記者になったが給料は下がり、提灯記事や半ば恐喝染みた記事を書くのに耐えられない日々を送るようになっていた。
業界記者にも嫌気が指していたあいつは大阪駅前の歩道橋に体を預けて駅の構内からはじき出されて来る人々の群れを飽きもせずじっと眺めていた。それはまるで選別機のベルトに架けられたミカンのようにゴロゴロと絶えることなく次々と人々が駅構内からはじき出されてくる。何十万人の人々が何処へ行くのだろう。よく収まるものだと感心させられる。皆それぞれに家庭を持ち子供がいて明るい家族に恵まれているのだろうなあ。あいつは傷物として選別され捨てられるミカンのように自分ひとりが社会からも世間からも取り残されていた。何のために生きているのか、たった一人の子供も育てられない惨めなあいつがいた。
「俺も辛かったんだよ。雑誌の発行もパーになるし、歩道橋の上から飛び降りようかと思ったんよ。でもなあお前のお母はんやお袋の顔を浮かんできてなあ留まったんよ」
<ほんまに情けない男だったんだなあ。妻に同情するよ>
楽しいはずのあいつらの新婚時代はたった一年で終わり最初の離婚の危機だったようだ。
妻は煮え切らないあいつに愛想を尽かした。悩んだ挙句に実家の母に窮状を訴えたが、母は何も云ってこなかった。あいつにも何ひとつ文句を云ってこなかった。
「それ見たことか!だから結婚に反対したんだ」
それぐらいは云ってきても良さそうだったが全くの音無しだ。
「困った時は何時でも帰って来るんだよ」
そう云った母の言葉が昨日のように思い出される。まさか一年やそこらで、
「何とかなるよ。帰っておいで」
とも云えない母の厳しい心情が妻には手に取るように読めた。待ち兼ねていたであろう嬉しい筈の初孫の誕生がこんな形で苦しみ悩まされるとはついぞ夢にも思わなかったに違いない。近所の手前もあるが、若くして夫を失い女手ひとつで三人の子を育て上げた母は娘にまで同じ道を歩かせるわけには行かないのかも知れない。あいつを伴侶に選んだのは妻自身であった。自分で解決する以外に道はなかった。
「母さん許して、浅はかな娘を」
妻もまた最悪の選択肢として母子家庭も決意したんだそうだ。
「あの男は一箇所で納まるような男ではない」
と言った母の判断の正しかったことを認めざるを得なかった。母に詫びて高松の実家に帰って子供を産み、一人で育てよう。そう決心したもののなかなか踏ん切りが着かない。夫か子供かどちらかを捨てなければならない。そんな妻の苦しい選択も知らずあいつは暢気に昼頃まで布団の中でゴロゴロして昼過ぎ出社して行く。帰りは何時もアルコールを佩びて午前様だ。臭い匂いをそのままどたっと布団に潜り込み強引なセックスに埋没し昼頃起きだしてくる。まるでセイウチだ。何と不摂生な生活が続いたそうだ。
あいつは境遇の悲運を嘆くばかりで組合運動をしていた頃の覇気は失せ、都会の泥にまみれ薄汚れて行く無気力な夫を妻は見たくなかった。このまま結婚生活を続けても何の希望も夢も見えて来ない。このままではあいつは駄目になってしまう。あいつが嘆くほど彼の境遇が悪いとは思えなかった。世間には大学はおろか高校へも行けない人がごまんと居る。あいつは曲がりなりにも高校を出ている。大学を出ていれば四大新聞社にだって就職できたんだと豪語するが、それは強がりを見せても本当は小心者の卑怯なあいつの逃げ道なのだ。
<同感だ。棄てられた野犬でさえ子供を育てているんだ>
妻は産み月近くまで大きなお腹を抱えて近所の酒屋の卸問屋へ事務員としてパートを続け、離婚届にハンコを押して何一つあいつを非難することなく四国の高松へ帰っていった。
「今日でお別れね。身体に気をつけるのよ。じゃさようなら!」
妻は殊更に‶さようなら″に力を入れて別れを告げた。取り残されたあいつは何か夢を見ているようにボケッと離婚届を見ていた。とうとう恐れていた事が現実に成ったのだ.いつかこんな日が来ることは目に見えていた。
あいつは鴨居にだらしなくぶら下がっている妻が日ごろ着ていた花柄模様のエプロンをじっと見つめていた。あいつはエプロンをして炊事をしている妻の姿が一番好きだったという。新婚時よく後ろから嫌がる妻の柔らかい乳房に抱き付いたり、頬にキスをしていた。妻は着替え以外何一つ持って帰らなかった。嫁入り道具も和服や帯、洋服も箪笥に詰まったままだ。二人で買いに行った夫婦茶碗もきれいに洗って食器棚に並べてある。
「俺も鴨居にぶら下がって見るかな」
あいつはのそのそと立ち上がって鴨居にぶら下がっているハンガーを外し浴衣の帯を括り付け首を入れてみた。だが足が畳についたままだ。
「何だこれ。これじゃ首も吊れないや。足が長すぎるのかなあ」
あいつは気楽な独り言を云いながらふと職業柄新聞の見出しを考えたりして不埒というか呆れた奴だ。
‶新妻に逃げられ首吊り自殺″
社会面のトップに三段抜きで、デカデカと掲載されるかな。せめて死ぬ時ぐらいは派手にやってもらいたい。いや片隅の処に申し訳なさそうに新聞の空欄を埋めるための穴埋め記事として、小さく片付けられるに違いない。
‶情けない男首を吊る″
「このほうが俺らしい結末だろう」
あいつはこの場に及んでも人の生死を弄んでおった。
妻が実家に帰ってから一ヶ月以上も経っていたが何の連絡もなかった。
「嫁入り道具は後で神戸にいる兄が引き取りに来るからね」
確かそう云っていたが兄からも何も云ってこない。あいつは相変わらず惚けた風采で襟垢だらけのワイシャツに染みのついた同じネクタイをだらしなく緩め千鳥足でアパートに帰ってきた。水道の蛇口に直接酒臭い口を持って行き水をがぶ飲みしてドサッと黴臭い万年床に倒れ込んだ。寝起きの悪いあいつはドンドンとドアを叩く音に吃驚していた。
「電報ですよ。電報!」
「電報!何だろう?」
あいつは慌てて電文を読んだ。
「ダンシ、タンジョウ」
唯それだけだ。それは母からでなく、まだ嫁に行ってない妻の妹からだった。母はあいつに何が云いたかったのか。娘を持つ母の持って行きようのない怒り、不安がどのようなものであるかあいつにはわかっていなかった。せめて夫がいてくれたらと己を責め、今又娘が同じように世間から変な目で見られる母子家庭をたどる運命に耐えた。朝晩仏前の前に座り先祖に感謝し冥福を祈ると共にわが子の行く末をお見守りくださいと祈るより方法がなかった。娘が選んだ相手だ我慢するしかない。今更あいつを責めても詮無いことだ。
あいつは予期していたこととは言えうろたえていた。下着のまま階段を駆け下り郵便屋を追っかけたがバイクは角を曲がって消えた。何をどうすればいいのか判断できない。頭の中を何かがぐるぐる回っているだけで纏まりがない。あいつは顔を洗って両頬をピシャピシャと叩いた。眠気が一瞬にして冴えた。
「子供に会いたい」
あんなに子供を産むことに不安を抱いていたあいつの胸に訳の分からない衝撃が突き上げてきたんだそうだ。
あいつは窓を開け太陽に向かって大きく両手を揚げた。日頃太陽に顔向け出来ないだらしない暮らしをしているあいつにも平等に眩しい太陽の光は生きるエネルギーと希望を与えていた。
あいつは財布の中身を確かめた。ほとんど何もない。安月給は暴飲暴食に消えていた。高松に帰る汽車賃もない。あいつは箪笥の棚から妻の嫁入り着物を取り出し質屋の暖簾をくぐりよった。
あいつと妻の快楽の結晶はつるりとした赤い頬をして妻の傍らで寝息も立てず、まだ見えぬ眼に目ヤニをためて何を夢見ているのか薄笑いを浮かべている。あいつが妻の着物を質草にして体面を繕い懐具合を糊塗してる事を見透かして軽蔑してるのかも知れない。あいつの捻じ曲がった根性はあどけない我が子の寝顔さえいじけて見えるのだろう。そう確かに昨日までのあいつにはそんなふうに歪曲した下品な理解しか出来なかった。だが今日のあいつの眼は生き生きと輝いていた。
「おい、父さんだぞ、よう頑張ったのう」
あいつは握り締めている紅葉のような小さい手を無理やり開いて己の手と合わせて、
「小ッチャイのう。ほんまにチッチャイのう。可愛いのう」
と、あいつは同じ言葉の連発だ。他に表現する言葉を見出せないほどあいつは興奮し感動していた。
「ちょっと抱いてもいいか」
「そうっとよ。落とさないようにしっかり抱くのよ」
「大丈夫だよ。おお!思ったより軽いなあ。ほーれ高い、高いだぞ」
あいつは揺り篭を揺らすようにしながら上へ上へと迫り上げていった。頬が緩み、にやけた顔は何処から見てもやはりあいつも世間並みのバカ父親に過ぎなかった。
「あんた、もう止めてよ。落っこちるわよ」
昨日までの重苦しい離婚騒動なんか何処かへ吹き飛んだように妻は甘えた声でおねだりするように嗜めた。
「ほーら、又何時もの心配性が始まったよ。お前は父親に似て男前やのう」
あいつは柔らかくつるっと弾んだほっぺに髭面を擦りつけた。
「オギャ、オギャ」
「あ、あ、折角寝ていたのにとうとう泣かしちゃった。いけないお父ちゃんね。ハーイ、オッパイよ」
お椀を伏せたような形の良い妻の胸は妊娠して益々大きくなり、どんぶり鉢を伏せたように張っていた。
「お乳はよく出るのか」
「よく出て困るのよ。張って痛いの。お乳が饐えるといけないから洗面器に絞って捨ててるの」
「もったいないなあ。俺が吸ってやろうか」
「ええ、吸ってみる」
「お前なあ、気持ようなって興奮するなよ」
「何云ってんのよ。興奮するのはあんたでしょう!」
あいつは久しぶりに妻のオッパイにむしゃぶりつきやがった。
「ぷへっ。何だこの拙い味。生温くて変な甘さだなあ。」
「本当。饐えてるのかなあ?」
「あんた等、何やってんの!母乳はそんなもんよ。親の前であほなことばっかりして、離婚、離婚とバカ騒ぎしてたのはどうなったの」
隣の仏間で念仏を唱えていた妻の母は突然襖を開け、呆れた顔で覗き込んだ。あいつの顔を見るまでは娘の人生を台無しにしたあいつにむかっ腹が立ち、どうしてくれようと地団駄を踏み、胸の奥が張り裂けんばかりに煮えくり反っていた。だが、あいつの悪びれないすっきょんとんな顔を見たとたんにすうっと激怒の腹の虫が治まり、安堵が先にたった。母はあいつの腕を取りじっと見据えて云った。
「あんた、お父さんになったんだからしっかりしてよ!娘子どもを宜しく頼みますよ。あの娘は戦争で家を焼かれ、身体を焼かれて父さんまでも奪われどんなに苦労したか知れません。どうか守ってやってね」
母は流れる涙も拭わずあいつを諭した。
「分かっております」
あいつはこれ以上泣かれるのが堪え難くそそくさと大阪へ帰っていった。
あいつは貧乏百姓の九人兄弟の四男に生まれた悲運を嘆くばかりだ。大学へ行っていたらもっと違った人生が開けたに相違ない。親を恨み、あんな父親には成りたくないと罵ったあいつだったが子供一人を育てられない。父親は九人もの子供を育てたのだ。あいつは大嫌いな父親の言ったことを思い出していた。
「人間手に職さえあれば食いっぱくれがないんや」
あいつは不器用な上に見栄っ張りで職人が嫌で嫌で堪らなかった。
小作農兼左官職人であるあいつの父親が
「勉強なんかしなくても人間手に職を付けておれば食いっぱくれがない」
とお題目のようにのたまうのがやりきれなかった。
「親父見たいにはなりたくない」
「生意気言うな!」
いきなり拳骨が飛んできた。
「だから野蛮人は嫌いだ!」
「何!小倅のくせに理屈ばっかり言いやがって誰のお陰で大きくなったんや」
いつも親子喧嘩だった。
「人間手に職さえあれば食いっぱくれがないんや」
考えて見ると大阪へ逃げて四年、あいつがやった事はなんだったんだろう。あいつの為にも社会の為にも何の役にも立っていない非生産的で非日常的であった。何故あいつは活字文化の世界に憧れたのだろうか。新聞記者になろうとしたのは中学時代四国新聞社に社会見学に行った時だ.鳴り止まぬ電話に飛びつきメモる者、受話器を投げ出しカメラマンを急かして飛び出して行く記者達、寸刻を争う活気に満ちた社会部、ゴーオーと猛スピードで回転する輪転機、ケース棚の活字を原稿を見ながらゲラ箱に拾い込む者、編集されたゲラ刷り通りに組版し半円筒の鉛版を造る印刷部。社内は何処も活気に溢れていた。活字は権力に歯向かう大きな武器であった。大人になったらこんな所で働きたい。あいつの胸に大きな衝撃を与えたのだろうかあいつは社会の闇に蠢く悪に立ち向かい弱き者を助けたいと思うようになった。あいつの理想だけは大きかった。同じ新聞記者でも大新聞社と業界記者ではあまりにも違いすぎた。あいつのやることは共に悪を助長するだけだ。あいつはケースから零れている活字を宝物でも見つけたようにこっそり五,六っ本拾ってポケットに隠して持ち帰っていた。だがその活字が思わぬ形で本当の宝になってあいつの後の人生に大きな影響を与えるとはあいつ自身も夢にも思わなかったに違いない。
父親の云うように可愛い子供のためにももっと肉体を使って物を作るとか、育てる仕事に就こうと殊勝なことを考え始めた。だがあいつには経験も能力もない.おまけに不器用と来ていた。あいつはあいつの進路に大きく影響を及ぼした四国新聞社でこっそり拾って来た活字を自分でも何故だか分からないが後生大事にずっと隠し持って居た事を思い出していた。
「そうだ。あれだ!」
小さな箱に入れて机の引き出しの片隅にあった活字を取り出した。その活字の手触りが幼友達のような何とも云えない懐かしさが蘇ってきた。活字は十年以上になるが未だに銀色に輝いていた。そうだ、印刷屋がある。印刷はあいつのように多少不器用でも頭があれば出来るのではないか。あいつは雑誌社時代印刷所に出入りしていて印刷の工程は分かっていた。
あいつは一目子供を見ただけで大阪へ帰った後それから半年間あいつからは何の連絡も無く、妻が手紙を出しても返事もない。勤め先へ電話をしてもとっくに辞めたと素っ気無い返事。仕舞いには手紙が受取人不詳で返って来る始末だ。全く生きているのか死んでしまったのかあいつの行方が分からなくなった。
<そう云えばラッキーの父さんもあいつと同じように交配だけして今頃何処で何をしているんだろう>
あいつが何処で何をしてるのか妻は歯軋りを噛む思いだった。
「妻子を置き去りにして何とも思わないんだろうか。あんなに言い聞かせたのにすることだけは好き勝手気ままにして後は知らん顔か。なんと得て勝手な畜生にも劣る男だ!野良犬みたいな奴だ。野垂れ死にでも何でも勝手にしやがれ!」
妻の母も持って行きようのない怒りをぶちまけた。妻は自分が選んだ伴侶とは言え余りに無責任なあいつに身の置き所がなくあれほど張り裂けるばかりに出ていたお乳がピタリと出なくなった。あいつとの家庭生活も今度ばかりは終わりだなと腹をくくった。そんな矢先あいつはのほほんとひょっこり舞い戻って来やがった。
「おい元気やったか」
「元気やったかじゃないわよ。こっちの台詞よ!今まで何をしてたの?」
「うーん、ちょっと考えることがあってなあ……」
あいつは四時ごろ起きて新聞配達を始め、弛んでいた肉体と精神を極限まで痛めつけようとしていた。そして昼間は二十七才にもなりながら小さな印刷屋の小僧になった。半年間の新聞配達と印刷屋の給料でアパートを引越し印刷屋の近くに部屋を借りた。見習い期間も過ぎやっと印刷屋の給料だけでも残業すれば最低限の生活する目処がついたそうだ。
「お母さん本当に長いことご心配掛けてすみませんでした。何とか親子三人食っていけそうなんで迎えに来ました」
「ほんまに、心配ばかり掛けて命が縮んだわ!手紙の一本ぐらい出せなかったの」
可愛い娘の婿を憎かろう筈もなかったが余りの仕打ちに母は殴り殺したいほどの衝動を懸命に抑え愚痴を零した。
「手紙を出すと里心がついて挫けそうだったんで我慢しましたんや」
「それにしても梨の礫はないでしょうが、あんまり殺生やないか」
「すまんこって、もう心配掛けんようにしますよ」
あいつはぴょこんと頭を下げた。
「ほんまに、頼みますよ。男はなあ妻子を養わないかんのや。しっかりしてや」
いくらあいつを責めても詮無いこと、結局はあいつに頼らざるを得ない。それが娘や初孫の一番の幸せなのかも知れない。こんな時親がしてやれることは何もない。娘の苦労が目に見えていても引き止める権利は親にない。情けないことに堪忍袋の尾を締める意外に身の持って行きようがなかった。
義母の説教が効いたのか結局あいつは新聞記者になって将来は小説家になるのだという全く途方もない馬鹿げた夢を棄て親父が云ったように食うために大嫌いな職人になったわけでちょっと可愛そうなところもあって妻は自分勝手を許していた。それが良かったのか悪かったのかは分からないがあいつなりに二十年近くも倒産もせずに頑張ってきた。今では多少の余裕が出来いろんな趣味に手を染めていた。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)



最近のコメント