ラッキーとあいつと妻(四)
四
ラッキーを餌にして夫婦間の会話を取り戻し溝を埋めようとしたあいつの計略はある程度成功したように見えた。あいつは組み立ての犬小屋を買ってきた。妻はいそいそとパーツを支えて組み立てを手伝った。頼みもしないのにマジックで<ラッキーの家>と書いたシールを持ってきて
「ねえ、何処に貼る?」
年に似合わぬ甘ったるい声で犬小屋の入り口の上段に貼った。あいつは上機嫌でラッキーは出来上がった犬小屋に抛り込まれた。が、ラッキーは直ぐに飛び出してやった。
「あんた、置き場所が悪いんじゃない」
あいつは妻の言い分に納得したのかあっちこっち置き場所を替えたが結果は同じだった。野生に戻った母親から産まれたラッキーは犬小屋は狭くて圧迫感に耐えられない。
あいつは諦めずにジャーキを鼻先にちらつかせて小屋に誘導したが、ラッキーはその場にどさりと伏せの構えを取り相手にしなかった。あいつは腹を立て、
「人が折角作ってやったのにこのやろう!」
と、再び小屋に投げ込まれたがラッキーは又もや素早く逃げてやった。
「そんなに乱暴にしちゃだめよ。ラッキー、ほら暖かいよ」
妻は女親らしく優しく声を掛けながら古い毛布を折りたたんで小屋の中に敷いてくれた。薄情なあいつとは大違いだ。
小屋入れを諦めたあいつは首輪にリードを付け、ラッキーが逃げられないようにして、血も涙もない特訓を始めやがった。
「お手!お座り、伏せ!」
と何度も執拗に頭を叩きながら繰り返した。叩かれるたびにラッキーは<キャン!>と泣いた。
「もういい加減にしたら!可愛そうやないの」
「いや、甘やかしたらあかん」
あいつは息子二人も厳しく教育したらしい。入学式にも父親授業参観にも欠かさず出席した。その結果は長男は円形脱毛症になり、次男は千五百メートル競争で断トツのトップでゴールしたにも関わらずスタート直後のコーナーで押し出され一歩コースをはみ出した規則違反で失格にされ、それが原因なのか次男は長距離ランナーを諦めた。自分は貧乏で大学にも行けなかったという逃げ道をつくり息子たちに期待していたがトンビが鷹を産むわけがないし、メンデルの突然異変も起こる筈もなく結局二人とも平凡なサラリーマンになった。
ラッキーは叩かれるのが厭でしぶしぶあいつの支持に従った。チョコンと座ってやったら
「まあ、お利巧ね!」
妻が叩かれて痛い頭を撫で撫でしてくれたが、うっとしいので小屋の中へ逃げて不貞寝をしてやることにした。妻は小屋の中まで腕を伸ばしてきて、
「可愛い!可愛い!」
と連発しながらお腹の周りをまさぐり回した。
<おお、これはなんだ!気持ちいい!>
ラッキーは目をしょぼつかせて久しぶりに深い眠りに落ちていった。草むらで母親に甘えて乳房に吸い付こうとすると母親は邪険に払いのけ、ゆっくりと立ち上がり立ち去ろうとした。ラッキーが追いかけようとすると母親は振り向きウウッとラッキーを睨んだ。尚も追っかけようとしたが、
<お前はもう私の子じゃない着いてくるな。早く帰れ>
と言わぬばかりに素知らぬ振りをして何処かへ立ち去った。ラッキーは仕方なく兄にじゃれ付こうとしたが兄はひょいと身を交わす。何度も飛び掛ろうとするが忍者のようにスッと消えて居なくなる。パッと現われたと思うと煙のようにスッと消える。
<兄ちゃんラッキーだよ。兄ちゃん、兄ちゃん!>
自分の泣き叫ぶ声でラッキーは夢から覚めた。慌てて小屋から飛び出し悪夢を追い払うようにぶるぶると身震いをしてキョトンと周囲を見渡した。母も兄も居ない。ラッキーは仕方なく犬小屋に潜った。
あいつはラッキーが少し懐いたと見たのか得意そうに散歩に連れ出した。公園の運動場の真ん中で追っかけごっこをして遊ぼうとして、子犬だからと甘く見てリードを放しやがった。その一瞬にラッキーは公園を駆け抜け、車が行き交う道路を突っ走り工場跡地へと遁走してやった。あいつは
「危ない!止まれ!危ない!」
大声で叫びながら息を切らし必死の形相で追いかけて来た。生憎母も兄も何処かへ出かけたらしく助けを求めたが誰も居なかった。路地の隅に追いやられとうとう捕まってしまった。<キャンキャン>と大声で助けを求めたら食堂の小父さんが飛び出して来た。
「その犬……」
「すみません。首輪が無かったので貰ったんですがお宅の犬ですか?」
「いや、飼ってるという訳ではないんだが……」
小父さんには母さんが時々餌を貰っていた。
「譲って貰えますか」
渋ちんのあいつが万札を出した。
「いや、捨て犬の子供だから可愛がってもらえば良いんです……もう一匹居たでしょう」
小父さんはちょっと言いよどんだ。
「ハイ、居ましたね。でも私が貰ったのはこれだけですよ」
「それが……殺されたんですよ」
「ええ、本当ですか!」
「吠え付いたので酔っ払いが蹴り上げたんです。当たり所が悪かったのか一発であの世行きですわ」
「可哀想なことするなあ……それで母親は」
「死んで息をしてないあの子を銜えて何処かへ行きよりました……ほんまに可哀想で見て居れませんでしたよ」
「ほんまですなあ。酷いことをする人もいるんですなあ……」
あいつはポロリと涙を落とした。それにしてもあの夢は正夢だったのだ。兄さんは死んでしまった。母さんは息のとざえた兄を銜えて何処へ行ったのだろう。折角育てた我が子が二匹とも居なくなることに耐え切れず亡骸と分かっていながら別れをすることが偲びがたかったに違いない。
<母さん安心してラッキーは元気でいるよ>
ラッキーは母さんに届くように大声で叫びたかった。あいつが流したのは亡くなった兄や子供をなくした母親の心情を察しての涙に違いない。多少の情はあるんだ。連れ去られた時ラッキーの母さんが唸り声を出さなかったら兄と取り替わることもなかった訳で、今頃ラッキーが天国か地獄へ行っていたかと思うと背筋が寒くなってあいつの胸にしがみ付いた。あいつの妻はあいつを薄情物だと口癖のようにのたまうが、決して悪い奴ではなさそうなんだが。
<衣はともかくとして食住は満足とまでは云えないにしても不自由しないのだから幸せなんだろうか>
今更ながら犬も人間並みに運不運が付きまとうものだと痛感した。
「ですからその子犬、可愛がってやってくださいよ」
「はい、分かりました」
<ほんまかいなあ、ほんまに分かってんのか。伯父さんあいつは調子が良いだけの男なんですよ。あいつは自分の事しか考えてない自己本位のどうしようもない奴ですよ。可愛がるなんてとんでもないことですよ。こんな男にラッキーを任さないでよ>
それでもあいつは飼い主としての自覚が少しは芽生えたのか早速保険福祉センターに登録すべく電話をしておった。
「はい、それで犬の種類は」
「ええ、種類?種類は犬ですよ」
「犬は分かりました。だから犬の種類ですよ。マルチーズとかヨークシャテリアとかいるでしょう」
「そんな立派なもんじゃありませんよ。捨て犬の子なんですから」
「捨て犬の子?それでメスですかオスですか」
「はい、メスです」
「何歳ですか」
「わかりません」
「わからない…分からないってあんたね!いい加減な人だなあ……宜しい、今各地の小学校を回って狂犬病の注射をしていますので近くの小学校の巡回日を通知しますから必ず連れて来てください。そこで種類も年齢も分かると思いますので。よろしいですなあ」
「はい、承知しました」
ラッキーは指定された日曜日あいつに連られて小学校やらに赴いた。今まで通ったことのない初めての道だ。何処へ連れて行かれるんだろう。あいつを百パーセント信用しきれない不安と緊張から便を催した。道路の真ん中で消化しきれない柔らかいウンコをしてやった。
「あ、こいつ何をするねん!道の真ん中で」
あいつは文句を云いながらチリ紙で糞をドンくさい格好で掴み取ろうとしたが柔らかくてきれいに拭き取れないらしく、
「朝散歩の時ウンコしたやろ、なんで又こんな所でするねん」
あいつは又ポカンと頭を叩きやがった。やっとの思いで小学校に着いたら多数の仲間がいたが母さんは見当たらず洋服を着たり可愛いリボンを付けた血統書付きの犬ばかりだ。少し気後れしているところに大きなラブラドール‧レトリーバーが気安げに近寄ってきてお尻の周りをウロウロと嗅ぎまわるので<ウウッ>と威嚇して飛び掛ってやった。
「まあ、乱暴な犬ねえ!躾けしてないのかしら」
中年の細身な小母はんは薄紫のサングラスの奥でラッキーを睨み付けながら小声で文句を云ったがあいつは横を向いたままうちの犬じゃありませんよと言わぬばかりに他人の振りをしているやがる。
そう云えばあいつの妻がよく愚痴っていた。二人で電車に乗っていてもあいつは独身ですよと言わぬばかりに離れて腰掛け見知らぬ女性ばかり見つめていたと。
<ヤレヤレ冷たい主人だ。先が思いやられるよ>
「何云ってやがる。お前は怖がりの癖に飛び掛るのがいけないんだよ。俺まで恥を掻いたじゃないか」
「ラッキーちゃん、ラッキーちゃん」
ちょうど係りの女助手がラッキーを呼んだ。ラッキーは小さなテーブルの上に載せられたがラッキーはすかさず飛び降り逃げてやった。
「ご主人ちゃんと捕まえて置いて下さいよ」
あいつは皆の前で頭を叩くわけにもいかず、
「すみません。この子怖がりですねん。先生怖くないからね……」
愛想笑いをつくりながら若い娘を襲うように有無を言わせぬ必死の構えでラッキーはあいつに押さえ込まれた。全く妻との最初の時も同じだったらしい。お風呂帰りに交換日誌を持ってあいつの下宿へ立ち寄った折、キスをしていて行き成り妻を押し倒したのだ。あいつは半ば合意のうえだと弁解するがもっと厳粛なものだろう。
<分かったわよ。そんなに強く押さえないでよ。苦しいよ>
獣医はさすがに手馴れたもので一瞬の隙に<キャン>と啼く間もなくお尻の近くに狂犬病の注射をしやがった。
<あ,痛。淑女のお尻に何をするねん>
獣医の奴はそんな淑女の乙女心にお構いなしだ。
「茶と白模様の雑種ですな。何時買われました」
「いや、拾ったんです」
「拾った?まあいいでしょう。それで何時」
<まあいいでしょうとはなんだ!あいつは勝手に拉致しやがったんだぞ>
「正月の中頃かな」
「一月ですか……」
獣医はラッキーの顎たんを掴み口をあけさして、
「ははん、永久歯が大分生えてますなあ。六っヶ月位でしょう」
「そうですか、六っヶ月ですか」
「じゃあ、これ鑑札とステッカーです。鑑札は首輪に、ステッカーは門の所に貼ってください」
「門?そんなもんありませんよ」
<洒落を云うてる場合か。犬を飼うんだったら門構えのある庭付きの家に移れよ>
「じゃ玄関の扉に貼って訪問者に分かるようにしてください。登録代と注射料金五千二百円です」
「ええ、そんなに高いの」
<五千円ぐらいで高いと云われりゃかなわんなあ。他の犬は何十万もするんだよ。お前は唯で拉致したんだろう>
「はい決まりですから」
あいつは仕方なく又妻が文句を言い出すのを恐れながら料金を支払った。
「まあいいじゃないの、天下晴れてラッキーは家族になったんだからね。可愛い!」
妻はあっさりと云ってラッキーを抱き上げ頬摺りしてくれた。
<何か気が晴れたような気分。幸せだワン>
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