七
昼間の公園は幼児を連れた若いママたちで賑わっていた。長く続いた景気の低迷がやっと底打ちした感があり、建築業界も少しづつではあるが上昇の兆しが見えはじめた。あいつの近くにも大きなマンションが次々と建ち、小さい子供連れや大きなお腹をした若いカップルが目立ち始めた。
あいつの長男も道路を挟んだ直ぐ横のマンションに引っ越して来た。結婚十年になるが子供が居ない。だから公園デビューもない。産道が狭く子供が出来にくいそうだ。
ラッキーの知らないお爺ちゃんが孫を滑り台に乗せ心細そうに手を添えながら滑らせている。羨ましそうに見詰めていたあいつは目を逸らしていた。ラッキーはそこらじゅうを嗅ぎまわってマーキングに余念がない。ラッキーは孫の居ないあいつの寂しさを紛らわすため飼われた。孫を抱かせられない気兼ねからか長男は
「どちらかが残ったらマンションに来たらいい、一部屋用意しておくから」
と、いかにも親孝行らしいことを口にする。本音でないにしても可愛いことを云う。常日頃から二人揃っている間は貴方たちの世話にはならないよと口癖のように云ってきたあいつの妻は、
「有難うよ。これで安心して暮らせるわ。あんなボロ家何時倒れるか分からんけんね」
あいつの不甲斐なさを詰ることも忘れずに満足そうに、畳の部屋をぐるりと見渡しながら押入れの襖を開けたり閉めたりしながら合点していた。妻の方が年下だし男と女では女が長生きするらしく、当然生き残るのは自分だと決め込んでいるようだ。どちらが残っても最後に世話になるのはやはり長男なんだろうという思いもあいつの意識の底にはあるのかきつい事も言えず遠慮しているように見える。あいつも父親を無視し疎んじてきたらしいが、亡くなって初めて父親の存在感に感謝している様子だ。何しろ九人も子供を育てたのだから。
公園のベンチにはあいつの父親と年恰好の似た年寄り達が昼間から缶ビールを飲みながら談笑していた。
「おい、お前も一杯やるか」
老人はラッキーの鼻先にコップを持ってきた。
<うわっ変な匂い。堪忍してよ>
ラッキーは顔を背けた。
「上機嫌ですなあ。うちの父親も酒が好きで濁酒の一升瓶を膝に抱え込んでチビリチビリとやっていましたよ。二年前に納屋の屋根裏から藁を降ろそうとして足を滑らして頭を打ち亡くなりましたけどね。後に残されたお袋は癌で入退院を繰り返していますねん」
あいつは珍しく聞かれもしない身内の恥を曝け出していた。が、何を思ったのか急にマーキングしているラッキーを強引に連れ帰えそうとした。
<待ってよ。今来たばかりじゃん>
霞んだような上空には航空機が都会の喧騒に爆発音を消されて静かに着陸態勢に入っていた。あいつは急に田舎に住む母親のことが気になったらしい。
夕食後あいつは妻にぽつりと云やがった。
「おふくろに会いに帰ろうかと思うんや」
「えっ、正月に見舞いに行ったやん」
「うん、もうなごうないような気がするんや。ラッキーにも合わせたいんや」
「ラッキーに……何で又」
「ラッキーの自慢をして孫が居なくても楽しくやっているからって安心させたいし、ラッキーに田舎を見せたいんや」
「そんな馬鹿な、アホらし」
妻はあいつの余りにも子供らしい感覚に呆れてせかせかとテーブルを片付け流しに立った。
「やっぱりダメかなあ」
あくる朝ラッキーとの散歩から帰ったあいつは性懲りもなく未練たらしく昨夜の話を持ち出した。
「ダメってなんのこと?」
妻は言い出したら後に引かないあいつの性分を知っていながら惚けたように云った。
「だから、おふくろに会いに帰りたいんや」
「帰るなって云ってるんじゃないわ。仕事はどないするん」
「仕事?仕事はもう止めるんや」
「止めるって!」
「ああ、会社勤めをしていたら定年や。それに活版の注文なんかもうないよ」
十五世紀フランスのグーデンベルクの印刷技術の発明、一八六九年本木昌造が日本で始めて活字の製造会社を設立以来活字印刷が最近まで主流であったが、この四、五年でコピー機、パソコンの普及により印刷業界は急変した。活版印刷から平版のオフセット,グラビヤ印刷に一変したのだ。活字は印刷歴史の遺物となり姿を消そうとしている。だが、あいつは頑固に活字にこだわって来た。元々印刷屋になったきっかけが四国新聞社で拾ってきた活字であった。あいつが活字に執着するのはそこに起因しているのかも知れない。
「オフセット印刷、あんなものは印刷じゃない。コピーに過ぎない」
あいつは刷り上った時のインクの香りと活字印刷の印圧が忘れられないでいた。
忙しい時は夜中の二時頃まで組版の仕事が毎日続いた。妻が身体を壊すのではないかと心配するほどあいつは頑張っていた。それが今は殆ど仕事がない。親会社も大手に吸収され社長が代わりあいつのところに仕事は回って来ないようだ。
「もういいんじゃないか。子供たちも独立したんだから」
察するに子供の成長期でなくて本当に良かった。今のあいつの状態ではもし子供の成長期と重なっていたらどうなっていたろう。あいつも父親の二の舞だ。子供に小遣いは疎か学資なんか到底出せなかっただろうし、生活そのものが成り立たず一家心中ってことになっていたかも知れない。子供は云うに及ばず妻にもあいつが父親を憎んだように貶され憎悪されたに違いない。ラッキーも何処かに捨てられたかも知れない。
「そうね……今の状態じゃ赤字ばかりだけど、年金が貰えるようになるまでもう四、五年頑張ってもらわんと」
妻は頭の中で預金残高を計算し虫のいいことを云う。
「注文がないんだから仕方がないだろう」
「そんなら印刷屋を止めて何処かへ勤める?」
「馬鹿なことを云うな。この年で何処が雇ってくれる!」
「親会社で使ってくれないかしら」
「俺は活版印刷しかやってないんだオフセットなんかやらないよ。第一親会社も不景気で吸収合併されたんだぞ」
「そんなに帰りたければ一人で帰ったらいいでしょう!」
と言ったきり妻は剥れて貝のように口を閉ざしたままだ。あいつの魂胆は分かっていた。田舎でゆっくりと流れる雲でも眺めながら野菜でも作りながらのんびりと暮らす算段をつけに帰るに決まっている。妻はそんな甘い考えには付いていけなかった。
ラッキーはあいつのとりとめもない思い付きに付き合わされた。
あいつはラッキーを車に放り込み何かに追われているかの如く物凄いスピードで車を走らせた。お袋に今会っておかなければ一大事になるとでも思ったのか、魔物に取り付かれたような硬い顔でハンドルにしがみ付いている。仕事のない煩わしい日常や何もすることのない窮屈な家庭では人間は息も出来ないのだろうか。
あいつはお袋のおっぱいが恋しかった訳ではあるまい。あいつは歳がいくに従って棄てた筈の田舎が恋しくなり大嫌いだった農業がしたくなっていたのだ。天気が好い時には土に親しみ、雨の日は好きな読書をしてのんびりと暮らしたかった。いかにもあいつらしい本音であり夢であった。妻はあいつの日頃の言動からあいつの魂胆は見抜いていた。どんなに考えても義母や兄夫婦に迷惑をかけるだけで現実にはうまくいく訳がなかった。それは男の郷愁というより男の脆さ、弱さを露呈しているに過ぎなかった。
去年までは神戸からフェリーに乗って帰っていたようだが今年は明石海峡大橋が出来きていた。吊り橋を渡る時、あいつは料金の高額なのに肝を冷やしていたが、ラッキーはその巨大な芸術作品のような鋼鉄の怪物に圧倒され平伏した。人間の神を恐れぬ貪欲な欲望の前に人間業とも思えない白鷺が羽を広げたような気高さ気品を備えた現代の技術に唖然とした。極楽への架け橋か神を恐れぬ地獄への吊橋か。人間は恐ろしい。
明治時代に提唱された夢の架け橋が現実のものになるとは信じられなかった。瀬戸大橋が完成した三十年程前高松沖で連絡船紫雲丸が第三宇高丸と衝突沈没した。瀬戸内名物の深い霧の中での惨事で多くの修学旅行生が犠牲になった。あいつもいずれはその紫雲丸に乗船して近畿地方への修学旅行を楽しむ筈だったそうだが、その事故を逆手にとって瀬戸大橋を実現させるとは人間の頭脳には敬服する
それに比べるとあいつの頭の中はどうなっているんだ。
あいつが後にも先にも親孝行らしいものをしたのはお袋を瀬戸大橋に連れて行った事らしい。お袋は瀬戸大橋の欄干に手を置いたまま暫く声を失くしていた。瀬戸内の絶景と穏やかな海、静かに浮かぶ帆船。眩しい鋼鉄の巨大な橋。
「生きていて本当に良かった。こんな素晴らしいものが観られるなんて!四国の人皆の夢だったの。冥土のいいお土産が出来たよ。ありがとうよ、汽車も走るんだね」
信じられないと言ったお袋を懐かしむかのようにあいつは島とは思えない長い淡路島を走り抜け鳴門大橋を渡った。途中、道の駅の津田の松原に立ち寄り憧れの讃岐うどんで舌鼓を打っていたがラッキーには水だけだ。お袋に会いたかったのか讃岐うどんが食べたかったのかわかりゃしない。
<自分だけ食べないでラッキーにも天ぷらの一枚でも食わせろよ>
「ラッキーは直ぐ車酔いするだろう」
<車にはもう慣れたよ>
「ほんまに食い意地が張るだから。腹痛起こしても知らねえぞう。ほら天ぷら」
<天ぷら一枚だけかよ。ケチなんだから……ああ美味しい>
松林を抜けると海岸に出た。砂浜には人影は全くない。水の季節には未だ少し早く心地よい潮風とたおやかに寄せては返す波の繰り返しだけだ。
あいつと妻が初めての口付けを交わしたのもこの津田の松原だったようで特別の思いがあるらしい。波打ち際に立ってあいつは遠くの沖を眺めていた。遠い遠い昔日の出来事をまるで昨日の出来事だったように錯覚していた。
喧嘩ばかりしているあいつら夫婦を見ていると想像もつかないのだがあいつにも妻にも青春時代はあったという。
付き合っているとき夏になるとあいつと妻になる前の彼女はよく泳ぎに行った。津田の海岸は遠浅で砂浜が沖まで伸びていた。当時は若いアベックは少なく殆どが小さい子供を連れた家族連れだった。砂浜から50メートルぐらいの沖に材木で組んだ飛び込み台が設けられていた。泳ぎ疲れた者の休憩所をも兼ねていた。妻はあいつと違って器用で運動神経が優れていた。学生時代ソフトボールのピッチャーで4番を打っていたのが自慢だ。泳ぎもあいつより上手かったらしい。
ラッキーはリードが離れているのも気づかないでぼーっとしているあいつをおいてけぼりにして走り回った。潮風が気持ち良い。
あの頃は浮き輪もレジャーボートもなくビーチボールがあるぐらいで、家族連れは波打ち際でビーチボールと戯れたり砂山を築いてトンネルを掘ったりしてキャアーキャアーと騒いでいた。
彼女はクロールで抜き手を切って飛び込み台へ向かって泳いでいく。あいつは呆気にとられてポカーンとしていた。
「えっ、ほんとかよ。俺より上手いなあ。ちょっと待ってよ」
あいつは慌てて後を追った。あいつの泳ぎは我流で唯手足をバタバタさせるだけでちっとも前へ進まない。クロールよりも平泳ぎの方が早いくらいだ。やっとの思いで飛び込み台に泳ぎ着いた。だが彼女は居ない。不思議に思って飛び込み台へ上がって見ると彼女は飛び込み台の向こう側で仰向けになって悠然と浮かんでいる。
「オオーイ上がって来いよ」
「アアーいい気持ち!」
彼女は浮かんだままだ。
真夏の空は雲ひとつなくギラギラと照りつけていた。砂浜の喧騒も五月蝿くは聞こえて来ない。周りに人影はない。あいつはトビウオのように飛び込んだ。あいつの田舎には川幅は狭いが深い川が流れていた。子供の頃高い岩から川底目掛けて飛び込んでいた。だから潜るのは得意だった。あいつは卑怯にも水中から近づき彼女を抱き上げた。ソフトボールをしていたせいか少し怒り肩の彼女は硬くごつごつしているかと思ったがゴムまりのように柔らかい。あいつが女の身体を抱いたのは初めての経験だった。すべすべして心地よい。彼女は予期していたのか、
「あっ」
と小さく声を出したきりで逆らうことなくあいつに抱かれたままだ。二人は足を絡め抱き合ったまま水中に沈んだ。彼女の柔らかい胸の隆起があいつの胸を圧迫した。あいつは息が苦しくなり身体を離し水上に浮かび上がった。広い海の開放感からか二人は見詰め合い立ち泳ぎしながらどちらからでもなく自然に唇を合わした。然しそれは甘いものではなくあいつの初キッスはショッパイ味がした。
「バーカー」
と顔を赤くしながら、ふざけるように海水を手で弾いてあいつに掛け泳ぎ出した。あいつも後を追い二人は遠回りをして防波堤の影から砂浜に上がり防波堤に背を持たしながら、人が居ないことを確かめ、再び唇を合わしたという。妻にはあいつと付き合う前男が居たらしいが長男であったとかで結婚に踏み切れず別れたようだ。母親が姑が居るところへは絶対にやらないと許さなかったのが原因だったようだ。どの程度の付き合いだったのか、写真もラブレターも焼いてしまったのか見当たらない。初めからそんな付き合いではなかったのかもしれない。
あれから四十年近く、その防波堤も今は白い波が打ち寄せ砕け散るばかりだ。
<純真な時もあったんだ。唇を突っつき合っただけで愛を確かめられるの?そんなこと四十年も忘れずにいるとは呆れたもんだよ。ほかに覚えていなければいけない事はないのかよ>
「ラッキー!ラッキーおいで!」
あいつはラッキーが居ないことに驚き大声を出した。
<心配しないでこんな知らない土地で遠くへなんか行かないわよ>
ラッキーは松林の中から勢いよく飛び出していった。ラッキーは波打ち際を走り回った。満ち潮なのか突然大きな波が打ち寄せて来た。沖に大きな貨物船が航行していた。ラッキーは驚いて慌てて逃げた。ラッキーは小さい時からお湯でシャンプーをしてくれたせいか冷たい水が苦手なんだ。夏の暑い時でもホースで水を掛けられるとキャンと泣いて逃げ出す始末だ。波で洗われた砂の中から桜貝の殻が顔を出し綺麗な淡いピンクにラッキーは鼻を近づけクンクンして見た。潮の香りだけだ。きらきら光る沖を眺めながらあいつはポケットから皮の財布を取り出し顰め面をして僅かな小遣いを勘定し始めた。
<人間世界は金がなければ生きて行かれないのだろうか。あんな紙切れのために夫婦喧嘩だ。同情するよ>
金の事で口喧嘩はしてもギリギリのところではお互いに信頼してこそ夫婦だ。出来ることならあいつのやりたいようにやらせたかったが一町歩に満たない田畑を分割してくれとは云える筈がなかった。それでも妻は言い出したら後へ引かないあいつの性質が気になり老後の暮らし向きをどうしたものかと頭を悩ましていた。
計算機よりもソロバンの方が得意な妻は預金通帳や保険証書を取り出してソロバン片手に頭を捻っていた。何年か前景気の良かった頃税務調査が何回か入り、銀行預金の出し入れがずらずらと明らかになり得意先が全部暴かれた。その度に酷い目に遭い妻は銀行を信用しなくなった。借金を綺麗に清算し当座預金のみとして貯金は全て郵便局に切り替えた。税務署も郵便局までは調べないだろうとの読みだ。だが銀行の融資を受けられない以上事業の拡大は望めなくなった。小さくてもいい堅実にというのが妻の主義だ。夢ばかり大きいあいつとはよく言い争っていたが、折りしもバブルが弾けて軍配は妻に上がった。それ以後何事も慎重できちっとしている妻にあいつは安心してすべてのことを任したようだ。が、妻にも誤算が生じた。
金利の急激な低下だ。
二倍は確実ですよ。上手くいけば三倍にはなりますよと上手く乗せられ夫婦揃って何口かの簡易保険に入ったが倍どころか皆無に等しい状態だ。だからと言って解約すれば何十年も掛けてきたものが水の泡になる。定額貯金を取り崩すにしても生活のレベルを下げなければどうにもならない。
妻の苦労も知らずにあいつは何を考えてるのか想像もつかないがラッキーはあいつの故郷へ連れて来られた。
「おい、ラッキー着いたぞ。故郷や、忘れんといてや。然しお前、よう頑張ったのう」
あいつに似ず優しい言葉を掛けてくれた。
こんな遠乗りはラッキーは初めての経験だ。何時もは神戸から高松へフェリーで直行していたらしいのだが今回は明石海峡大橋を渡り淡路島を縦断、鳴門大橋を超え徳島から讃岐に入った。あいつは故郷と言えば何故だか香川県と言うより讃岐という。讃岐の方が感覚的にピタッとくるのだろうか。津田の松原で休憩したがあいつは歳のせいか流石に少し疲れた顔をしていた。広い庭に車を止めラッキーは縁側の柱に繋がれた。ラッキーも車で五時間近くも揺られぐったりだ。あいつは構わず玄関に回りドアを開けた。鍵は掛かっていない。用心が悪かろうと思うのだが田舎では縁側のガラス戸も鍵は掛けておらず何処からでも入れる。それが普通なのだ。人を疑わない人情が未だ廃っていないのが嬉しく思えた。
「ただ今。帰ったよ」
誰も出て来ない。留守らしい。
「誰もいないのかなあ。戻ったよ」
あいつはラッキーを残したまま声を掛けながら部屋へ上がっていった。お袋は奥の間で横になっているらしい。
「ここに居たんか。皆は?病人一人残して薄情やなあ」
お袋はビックリしたように起き上がろうとした。耳も少し遠くなっているのだろう。
「おや、誰かと思った。田植えで皆忙しいいんや。急にどないしたん?」
「お袋のオッパイ吸いとうなってのお」
「この子は又馬鹿なこと云って。夫婦喧嘩でもしたか。ちょっと起こして」
お袋は急に帰ってきたあいつのことが心配になり、あいつの顔色を伺うように見詰めた。親は子供が六十才近くになっても未だ気になるのだろう。
「起きても大丈夫か。具合どうなん。」
「モルヒネで抑えてるから今のところは大丈夫だよ」
「手術はどうしても嫌か」
「もういいんだよ。こんなに長生き出来るとは思ってなかったよ。何時お迎えが来てももう思い残すことはないよ。爺さんが待ってくれてるだろうしなあ」
「生きてるときはよく喧嘩していたがやっぱり恋しいものかね」
「夫婦と言うものはおかしなものだね。生きてる時は何回も別れようかと思ったけど、死なれて見ると胸の中に風穴が開いたように空しく寂しいものだよ」
「そんなものかね。五月蝿い父親が居なくなって清清したかと思ったよ」
「馬鹿云うんじゃないよ。そんなものは傍のものが勝手に思うだけで空元気なんだよ。二人揃ってこそ夫婦なのよ。喧嘩している間が花だよ。肌身を許しあった仲だものどちらが欠けてもお終いなのよ」
「そうかも知れないね」
あいつはお袋のの背中を摩りながら小さく丸くなったお袋がいとおしくなったのか涙を流していた。
「お袋は幸せだったのか」
どちらかと言えば大柄な女であったお袋の大きな背中が苦労を重ねるたびに小さくなっていくように思えた。
「どうだかね……そんな事考える暇がなかったよ。唯生きてくのに夢中だったね」
「うーん、生きてるだけの人生なんか詰まらなかっただろう」
「何を云ってるの。息をしてるだけとは意味が違うよ。生きると言うことが如何に難しくて大事なことかお前分からんか。一日一日の積み上げが生きるってことだよ」
「そりゃそうなんだろうけど、それで悔いはないの。楽しかった」
あいつは自分に問いかけるようにお袋に残酷な質問をぶっつけた。
「楽しかったよ。お正月やお盆に皆の元気な顔を見せてくれたときは本当に嬉しかったよ。自分だけの問題だけではない。家族や子供たちが何事もなく元気で無事に暮らせるよう何時も念じているんだよ。御蔭で九人の子供たちが誰一人欠けることなく元気で、人様に迷惑を掛けることもなく真面目に成長してくれてこんな嬉しいことはないよ。これ以上の幸せはないよ。母さんは皆に感謝しているよ」
懸命に生きたであろうお袋の涙声にあいつは感動していた。
「苦労掛けたんだなあ。ただ働くだけで何の楽しみもなかったんじゃないかと思っていたお袋が幸せだったと聞いて安心したよ」
「母さんよりお前はどうなんだい。幸せか。帰省してもゴルフや魚や貝を盗りに行って何時も家にはいなかったけれど」
「もうゴルフは止めたよ。ぎっくり腰が酷くてね。一週間ほど入院したんだ」
「そんなことがあったのかい。お前ももう歳なんだね幾つになった」
「来年還暦だよ」
「もうそんな歳か……子供たちも元気なの」
「ああ、何とかやっているよ」
「そりゃいい。元気が一番だよ。お金なんかなくても何とかなるけど健康だけは金で買えないからね。孫は未だなのか」
「うん、結婚十年になるけどダメらしい。もう諦めてるよ。その代わり犬を飼ってるんだ。ラッキーって云うんだ。ラッキーが夫婦の仲を取り持ってくれてるようなもんだよ。」
「そんなものかね。そう云えばお前は小さい時から犬が大好きだったなあ。シロって云ったかなあ。学校へ行ってる間に隣の大根畑を荒らしてえらい怒られたなあ」
「ああ、覚えてるよ。田んぼの水争いで父親同士仲が悪くて江戸の敵を長崎でとシロに当たりやがってえらく叩きやがった。頭から血出してほんまに可愛そうやったよ」
「二人とも亡くなってしまったがあの世でも喧嘩してるかなあ」
「案外仲良くやってるじゃないか。ラッキー連れてきてるんだよ」
「ええ、何処に……」
「縁側に繋いでる。ちょっと連れて来る」
ラッキーはやっとお袋とやらに対面出来た。が、何か気恥ずかしい気がしてあいつの後ろに隠れた。
「まあ、かわいい顔して。こっちへおいで」
<ワンワン。初対面の人は苦手なんよ>
尻込みしながら吠えてやった。
「犬とお前一人で来たのか。仕事はうまくいってるのか」
お袋はラッキーよりあいつ一人で帰ってきたことが先ほどより気になっているらしい。
「ああ……」
あいつは答えにくそうに声を細めた。
「何があったん」
「うん、印刷の仕事はもう止めようかと思ってるんだ……」
「何で又。あんなに頑張っていたじゃないか……それで生活はどないするん」
お袋は怪訝そうに目をしばたたせて心配そうに聞いた。
「うん、俺ももう歳やし、これからはのんびりしようと思う」
「のんびりって、お前お母さんの歳になるまで後三十年あるんだよ。どうやって食っていくんだ。そんなに蓄えがあるの」
「いや、蓄えがあるって事ではないよ。田んぼを借りてのんびり百姓でもしていれば食うことには困らないだろう」
「お前学校へ行ってる割には頭が悪いね。自分の田んぼを持っていても食っていけないから皆農業を辞めて働きに行っているんだ。農業を舐めたらいかんよ。のんびりやろうなんてそんな甘いもんじゃないよ」
あいつは九十近くの明日をも知れない老婆に還暦を迎える歳になっても怒られていた。目先のことだけしか考えてないと妻が嘆くのも無理はない。
「そんなものかね。やり方が悪いんじゃない?もっと効率的にやればなんとかなるよ」
「百姓の仕事は手間ひまかけるからいいものが出来るんだよ。手間ひま惜しんでは何も出来ん。面倒がりやのお前には難しいよ。嫁は承知をしているのか」
「いや……妻は反対してるんだが何とかならないかと兄さんに相談しに来たんだよ」
「それみろ!誰だって反対するよ。兄には言わんほうがいい。余計な心配を掛けるでない。お前は小さい時からよく考えないで直ぐ行動に突っ走る悪い癖があるよ。まあ嫁だけはいい嫁を貰ったがねえ。ようお前みたいなところへ来てくれたもんだよ。離婚もせずによく辛抱してくれてるよ。感心なもんだ。あの嫁でお前のうちは持ってるんだから大事にしてあげなよ」
世の中には嫁姑で揉めてる家庭が多いのにお袋は妻ばかりを褒める。あいつの出来が余程悪いんだろう。あいつは正月やお盆に帰省する度に遊びにばかり夢中になったが妻は家にいて手助けをしたりお袋の面倒を看て来たらしい。共に暮らしているわけではないので帰省している間だけ日頃の穴埋めをしているのだ。おまけにあいつに内緒で両親に小遣いを渡していたらしい。あいつもうすうす承知はしていたが悪いことではないので咎めることはしなかった。いや寧ろよく気がついてくれてると感謝していた。が、その金は俺が働いたものだと言いたげだ。
「俺だって一生懸命働いたよ。」
あいつは不服そうに云ったが、さすがにそれ以上は云えなかった。年寄りに逆らってもせん無いことだと悟ったのだろう。
田舎でゆっくりとゆとり生活を夢見たあいつの目論見は見破られた。
お袋の側近くに居てお袋を看取りながらラッキーと共に広い田舎で走り回り、雨の日には好きな本を読んだり詰まらない小説まがいの創作をして、悠々自適を夢見たがそれは絵に描いた餅で、選りによって頼みのお袋に打ち砕かれていた。お袋を安心させるためにもここは無理押しは禁物だよ。
可愛いラッキーを見せたらお袋の気持ちも穏やかになり田舎で暮らすのもいいもんだよと賛成してくれると信じていたようだが、暗に相違してあいつの魂胆は見抜かれただけでなくお袋は妻に加担した。
ラッキーはあくまでもあいつ等だけのペットでお袋にはそんなに可愛いものでなく嫁や本当の孫の方がいとおしいのだろう。ラッキーが吠え立てたのが悪かったのかも知れない。
妻は母親をたった一人残して高松から大阪へやって来た。母親が何かある度に小さい子供たちを引き連れて半日掛かりで面倒を看に帰った。当時は新幹線も瀬戸大橋もなく、連絡船のみで船酔いもし、はしゃいだり泣き喚く子らを静めるのも大変だった。そんな苦労を子らにさせたくない。それが妻の想いだった。子供と離れて暮らしたくないらしい。
「早く帰って嫁を安心させておやり。夫婦は一緒にいるのが一番だよ。嫁が居なかったらお前一人では何にも出来ないんだからね」
お袋は妻なしでは到底生活出来ないあいつの弱さを見抜いていた。兄の助けになるどころか迷惑を掛け荷物になることは予見できた。結局ラッキーはあまり歓迎されず何のためにしんどいめをしてこんな田舎に連れて来られたのか分からなかった。
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