(三)
三 順子は渡辺や先輩チーフに煽られて無謀な飲み方をした。小柄な割にはアルコールに強いのだろうか、酒とビールと焼酎をちゃんぽんで飲めたのだから。怖いもの知らずで女の意地だけで勧められるままに飲み干して、後はまったく意識の外にあった。渡辺の運転する車の助手席で丸くなって寝ていた。 「ゲォッ!」 突然胃から胸へと逆流してくるものがある。 「あっ、順子君ちょっと我慢して!」 渡辺は慌てて路肩へ車を止め車を降り、助手席のドアから順子を外に抱え下ろしたと同時に順子は我慢しきれず嘔吐した。汚物が渡辺のズボンにも跳ね散った。 「あ、あっ、酷いことになったね。大丈夫かい」 「私、もうだめ……」 順子はその場に蹲った。 「仕方がないね。ちょっと休んで行くか。ズボンも汚れたし、洗わないとね」 渡辺は言い訳を云いながらもすべて計算の上だった。家路とは全く逆の方向の桜ノ宮のラブホテル街に車を走らせていたのだった。 「とにかく車に乗って!」 渡辺はハンカチで順子の口を拭い、ズボンの汚物を払い落とし、再び運転して地下の駐車場へ車を滑り込ませた。車を降りた渡辺は助手席に回り順子を抱きかかえて部屋に入って行った。 「うわっ、綺麗というか派手だなあ」 ピンク一色に飾られた部屋で大きな鏡に映し出される渡辺自身が恥ずかしくなり素早くスタンドだけにして明かりを弱めた。行き成りこんなラブホテルに来るつもりはなかった。一流ホテルのスイートルームで順子との初夜を迎えたかったが順子が泥酔した状態では止むを得なかったのだ。渡辺は自分に言い訳をしながら、 「順子君大丈夫かい。さあ、しっかりして。シャワー浴びておいで」 順子の洋服を脱がせようとした。 「あっ、だめ。オッパイ触らないで。未だ主人の四十九日も済んでないのよ」 順子は胸を抱えて抵抗しながら身悶えた。 「母さん、早く起きないと会社に遅れるよ!」 幸治が順子の肩を揺さぶっていた。 「え、えっ。会社……」 夢か幻か変な夢を見たものだ。でも順子は確かに誰かに胸を触られたように感じたが気のせいだったのだろうか。 まさか息子の幸治だったのだろうか。ちょっと嫌な気分だったが朝は忙しい。そんなくだらないことを詮索している場合ではなかった。 人の一生は良い時と悪い時を足して二で割れとよく言う。良い事ばかりが続く訳でもなく、悪い事ばかりが重なると言うことではない。生きていればいろいろあって楽しいことや苦しいことの繰り返しなのかも知れない。だが順子の家庭は悲しく苦しいことばかりが続くような気がする。夫と義母の死に続いて舅の様子が最近ちょっとおかしい。よほど連れ合いの死が応えたのだろう。ショックが大きかったに違いない。頭が壊れかけている。お風呂の空焚きをしたり逆に水だけ入れて炊くのを忘れている。雨が降っても洗濯物を取り込まず雨に濡らしたままだ。とにかく忘れ物が多く当てにならない。そこまでは未だ他人に迷惑をかけないで済み良かったのだが近頃は人様の内からへんな物を持って来たり、只今と云って他人の家に上がり込んだり、朝早くから目を覚まし近所をうろうろするかと思えば何時まで経っても帰って来ず心配させる。帰り道が分からないらしい。事故にでも遭ったら取り返しがつかない。 「おじいちゃんは?おじいちゃん!」 二日酔いなのか頭が少しズキンズキンしたが順子は慌てて起き出し朝食の準備を始めたが隣の部屋はいやに静かだ。又例によって朝早くから何処かへ出かけたのだろうか、呼んでも返事がない。 「幸治、早くその辺探して来て!何をやってるか分からんのだから」 「又かよ!あの糞爺。御蔭でバイトも出来ないんだから」 お出かけ前の朝は忙しく順子一人ではどうにもならなく、舅の面倒まで手が回らない。やむなく中学に進級した幸治は勉強が難しくなったことも合わせて新聞配達を止めた。文句を云いながらも幸治は近くのマンションの中庭とか公園を探したが舅は居ない。隣近所に立ち寄った気配もない。 「何処にもいないよ!」 幸治は息を切らしながらも駆けずり回って八方探したが舅は見つからなかった。 「ほんまに世話の焼ける爺だなあ」 「可笑しいわね、朝御飯も食べてないのにそんなに遠くへ行く訳ないんだけどねえ。困ったお祖父ちゃんだねえ」 途方にくれた順子は念のため刷りガラスの戸を開けて見た。部屋の様子が何か変だ。姑の着ていた衣類が当たり一面散らばっている。在りし日の姑を思い出しているのであろうか。その真ん中で舅がきちんと座っているではないか。 「あら、お祖父ちゃん居たんじゃないの。返事ぐらいしてよ!なあにこれ。形見分けでもするの?」 「おおっ、静江帰ってきたんか。これ着てみい、お前にはこの絣の着物が一番似合ってたよ。早よそれ脱いでこの絣と着替えて見せて」 舅は姑とわざと間違えたのか、呆けているのか順子を捕まえて服を脱がせようとした。 「あっ、お祖父ちゃん何するの。放して!」 「静江、静江お前どないしたんや」 「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんじゃないの。順子、順子よ!」 順子は必死で逃げようとするが老いたとは言え舅は男、男の力には適わない。セーターを脱がされそうになりシュミーズが丸見えになった。 「あっ、お祖父ちゃん止めて。幸治、幸治来て!」 「大きな声出してどないしたんや。あっ、お祖父ちゃん何しとんや!」 幸治は祖父を跳ね飛ばした。 「何があったんや!」 「お祖母ちゃんと間違えたらしいのよ」 「お祖父ちゃん、しっかりしてよ。朝早くから何処へ行ったのかと探し回ったんやぞ」 舅は正気に戻ったのかしょぼんとへたり込み俯いたままだ。それにしてもどういうことなんだろう、今朝は二回も男に抱かれるなんて要求不満なのかしら。順子は半分はみ出しそうになった胸の部分まで摺り上げられたセーターを慌てて引き下げた。 最近、富に増えたのがシングル・マザーだ。全国で百二十三万世帯に上ると言われる。自立した若い女性は簡単に結婚して些細なことで簡単に離婚して母子家庭となり、又結婚は望まないが子供は欲しいとシングルマザーとなるのが若い女性の間でひとつのファッションとしての地位を築きつつある。女の子は妹として、男の子はボーイフレンドとして連れ歩く。口うるさく世話の焼ける亭主なんか要らない。気楽で誰の指図も受けずに好きなことが出来る。こんな楽しい生活はない。 おまけに児童扶養手当とか養育費とかいろいろ手当てされる。修学旅行代など修学費は唯、病院代も要らない。恵まれていると言えば言えないこともない。 順子はそんな女性の魁と言えば格好いい。だが実情はそんな甘いものではない。子供が一人ならいざ知らず三人も居る。その上に認知症気味の舅まで居る。先が見えない不安が付きまとう。それでも故人には悪いが姑と遊び好きの亭主が亡くなり何か垂れ下がっていた真っ黒な雲が切れて隙間から太陽の光が差し込んできたような暖かな僅かではあるが希望が湧いて来た。順子自身が主になったからだろう。こんな浮き浮きした気分になったのは何年ぶりだろう。そこには自然と女の部分が見え隠れしてどうしても隙間が出来る。 順子は若いはち切れそうな女体を持て余し、今朝のような変な夢を見るのだろう。三十そこそこで後家を押し通すのは辛く酷な話だ。かといって男なら誰でもいいという訳にはいかないし、一家の柱として三人の子供と舅を養っていかなければならない。浮ついてばかりは居れない。母子家庭になったことで諸々の手当てが貰えて当面は遣り繰りが出来るようになり、贅沢をしなければ幸治に朝早くからの新聞配達もさせないで済むようになった。後は子供たちが病気をせず元気で、舅の認知症が進まないことを祈るのみだ。 そんな順子の願いも虚しく、事は望まない方向へ流れて行く。とかく世の中の出来事は儘ならぬのが常なのだろうか。舅の行動は最初は呆けたまねをしているのではと疑っていた。身体は元気で何処も悪いところがない。だから何処までが本当で何が演技なのか分からなかった。 「おい静江、飯は未だか!」 「何云ってんのよ、さっき食べたばかりでしょう。それにおばあちゃんはもう居ないの。亡くなったのよ」 「居ないって、さっきまでそこに寝てたじゃないか。お前毒でも盛って静江を殺したか!」 「何へんなこと云ってるの、死にたいのはこっちよ。馬鹿馬鹿しい」 舅は姑の死を認めたくないのだろう順子に向かって悪態をついた。家の内で言う分には未だ我慢が出来たが隣近所の誰彼なしに告げ口をされるのには閉口した。 近所の人も事情は知っていてくれたがだんだんエスカレートして、幸一を殺したのも順子だと言いふらすようになった。近所の人も最初は気にすることはないよと親切に教えてくれていたが何度も聞かされているうちにそう云うこともあり得るのではないかと疑いの目で順子を見ているように思えてきた。 「順子さんこの頃綺麗になったわねえ。おじいちゃんもお元気でよろしいねえ」 聞こえよがしにそんな皮肉を言う者も出てきた。 「おじいちゃんもう日が暮れて来たし帰ってご飯にしよう」 順子は舅を急き立てて家の中に逃げ込むしかなかった。いくら甲斐性のない亭主でも亡くなってみると隙間風が吹き抜けるような一抹の寂しさがある順子には年老いて相方を失った舅のやるせなさが十分に分かるだけに身につまされてきつい事も云えない。 順子が舅の胸のうちを察して優しくしていると舅はそこに付け込んで調子に乗りなお甘えてくる。子供に帰っていくようであった。甘えるだけなら宥め賺して云うことを聞かせるのだが男というものは真に扱い難い動物である。 女は墓場に入るまでセックスが出来ると云われるが本当はそんな馬鹿な話はないと思う。女は還暦を過ぎると干からびて色気は失せ食べることに集中する。中には厚化粧をして男の気をひこうとする者もいるが、それも背骨が曲がるまでの事だ。その点男は脳卒中で半身不随になり手足が不自由でぶるぶる震えていてもお色気だけはしっかりしているのだろうかお尻や胸を触りたがるものである。舅もやはり男であった。順子の隙あるごとにお尻や腰にすがり付こうとする。さすがに胸までは手を出さないがよろけた振りをして腰にすがり付こうとする。 「おじいちゃん何するの。離してよ!」 「そんなに邪険にせんで、助けてくれよ。立たれへんね」 腰の手を払いのけようとするとなお必死にしがみ付こうとして態とかどうかは分からないが、ズボンの上からではあるが順子の柔らかい女の部分に手が触れることがある。 「あっ!このエロ爺い、何すんのよ」 順子は思いっきり舅を突き飛ばした。 もんどりうって倒れた舅はその場に伏して、 「あ、痛た。あゝ歳はとりたくないもんよなあ、嫁にまで馬鹿にされて情けないわ。おばあちゃん早く迎えに来てくれんか。あゝ痛い、どっか骨でも折れたん違うかなあ」 大げさな悪態をついた。 「そんな憎たれ口聞けるようなら大丈夫だよ。早くおばあさんに迎えに来てもらえるとええなあ」 順子も減らず口を云い返した。 なんやかんや云いながらも舅が未だ元気でいてくれて順子は助かっていた。舅が寝たきりになったら、それこそ家庭が成り立たなくなる。今でこそ介護保険制度が充実しているが、当時は必要性は叫ばれていたが未だ確立されてなかった。姑が病弱だった為に順子は舅の健康に留意し食事には気を使った。 「なんや又魚か、肉食いたいなあ」 子供たちは箸を投げ出して不服を言う。 「仕方ないでしょう、おじいちゃんが居るんだから。年寄りは魚の方がいいの」 「何でや、骨ばっかりで食べにくうてしょないわ」 真二が愚痴をこぼした。 「文句云わないの。魚の方がコレステロールが少なくていいのよ」 「コレステロールってなーに?」 今度は葉子が割って入って来た。 「何やよう分からんけどコレステロールが溜まると血管が詰まっておじいちゃんみたいに頭が可笑しくなるんだって!」 幸治が流石に兄らしく何処で学習してきたのか偉そうに云った。 「何を云っとるか、わしは頭なんか可笑しくねえぞ。馬鹿にするな!こんなイワシばっかり不味くて食えるか。鯛とかヒラメとか白身の魚はないのか」 「おじいちゃん青魚の方が血液がサラサラになるの。贅沢言わないの」 「年寄りだと馬鹿にしよって。あゝ歳は取りたくないね」 「そんなに嫌だったら食べなくてもいいのよ。後で私が食べるから」 順子は一家の主らしく高飛車に出た。 「何も食べないとは云ってねえ、ただ……」 「唯なーに聞こえないわよ!」 「なんでもねえ……」 舅も子供たちも大人しく箸を動かした。順子はじっと舅を見つめていた。可哀想だとは思ったが甘えさせないようにした。甘えから痴呆症がひどくなることを恐れたからだ。
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