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2009年6月

(三)

順子は渡辺や先輩チーフに煽られて無謀な飲み方をした。小柄な割にはアルコールに強いのだろうか、酒とビールと焼酎をちゃんぽんで飲めたのだから。怖いもの知らずで女の意地だけで勧められるままに飲み干して、後はまったく意識の外にあった。渡辺の運転する車の助手席で丸くなって寝ていた。

「ゲォッ!」

突然胃から胸へと逆流してくるものがある。

「あっ、順子君ちょっと我慢して!」

渡辺は慌てて路肩へ車を止め車を降り、助手席のドアから順子を外に抱え下ろしたと同時に順子は我慢しきれず嘔吐した。汚物が渡辺のズボンにも跳ね散った。

「あ、あっ、酷いことになったね。大丈夫かい」

「私、もうだめ……」

順子はその場に蹲った。

「仕方がないね。ちょっと休んで行くか。ズボンも汚れたし、洗わないとね」

渡辺は言い訳を云いながらもすべて計算の上だった。家路とは全く逆の方向の桜ノ宮のラブホテル街に車を走らせていたのだった。

「とにかく車に乗って!」

渡辺はハンカチで順子の口を拭い、ズボンの汚物を払い落とし、再び運転して地下の駐車場へ車を滑り込ませた。車を降りた渡辺は助手席に回り順子を抱きかかえて部屋に入って行った。

「うわっ、綺麗というか派手だなあ」

ピンク一色に飾られた部屋で大きな鏡に映し出される渡辺自身が恥ずかしくなり素早くスタンドだけにして明かりを弱めた。行き成りこんなラブホテルに来るつもりはなかった。一流ホテルのスイートルームで順子との初夜を迎えたかったが順子が泥酔した状態では止むを得なかったのだ。渡辺は自分に言い訳をしながら、

「順子君大丈夫かい。さあ、しっかりして。シャワー浴びておいで」

順子の洋服を脱がせようとした。

「あっ、だめ。オッパイ触らないで。未だ主人の四十九日も済んでないのよ」

順子は胸を抱えて抵抗しながら身悶えた。

「母さん、早く起きないと会社に遅れるよ!」

幸治が順子の肩を揺さぶっていた。

「え、えっ。会社……」

夢か幻か変な夢を見たものだ。でも順子は確かに誰かに胸を触られたように感じたが気のせいだったのだろうか。

まさか息子の幸治だったのだろうか。ちょっと嫌な気分だったが朝は忙しい。そんなくだらないことを詮索している場合ではなかった。

人の一生は良い時と悪い時を足して二で割れとよく言う。良い事ばかりが続く訳でもなく、悪い事ばかりが重なると言うことではない。生きていればいろいろあって楽しいことや苦しいことの繰り返しなのかも知れない。だが順子の家庭は悲しく苦しいことばかりが続くような気がする。夫と義母の死に続いて舅の様子が最近ちょっとおかしい。よほど連れ合いの死が応えたのだろう。ショックが大きかったに違いない。頭が壊れかけている。お風呂の空焚きをしたり逆に水だけ入れて炊くのを忘れている。雨が降っても洗濯物を取り込まず雨に濡らしたままだ。とにかく忘れ物が多く当てにならない。そこまでは未だ他人に迷惑をかけないで済み良かったのだが近頃は人様の内からへんな物を持って来たり、只今と云って他人の家に上がり込んだり、朝早くから目を覚まし近所をうろうろするかと思えば何時まで経っても帰って来ず心配させる。帰り道が分からないらしい。事故にでも遭ったら取り返しがつかない。

「おじいちゃんは?おじいちゃん!」

二日酔いなのか頭が少しズキンズキンしたが順子は慌てて起き出し朝食の準備を始めたが隣の部屋はいやに静かだ。又例によって朝早くから何処かへ出かけたのだろうか、呼んでも返事がない。

「幸治、早くその辺探して来て!何をやってるか分からんのだから」

「又かよ!あの糞爺。御蔭でバイトも出来ないんだから」

お出かけ前の朝は忙しく順子一人ではどうにもならなく、舅の面倒まで手が回らない。やむなく中学に進級した幸治は勉強が難しくなったことも合わせて新聞配達を止めた。文句を云いながらも幸治は近くのマンションの中庭とか公園を探したが舅は居ない。隣近所に立ち寄った気配もない。

「何処にもいないよ!」

幸治は息を切らしながらも駆けずり回って八方探したが舅は見つからなかった。

「ほんまに世話の焼ける爺だなあ」

「可笑しいわね、朝御飯も食べてないのにそんなに遠くへ行く訳ないんだけどねえ。困ったお祖父ちゃんだねえ」

途方にくれた順子は念のため刷りガラスの戸を開けて見た。部屋の様子が何か変だ。姑の着ていた衣類が当たり一面散らばっている。在りし日の姑を思い出しているのであろうか。その真ん中で舅がきちんと座っているではないか。

「あら、お祖父ちゃん居たんじゃないの。返事ぐらいしてよ!なあにこれ。形見分けでもするの?」

「おおっ、静江帰ってきたんか。これ着てみい、お前にはこの絣の着物が一番似合ってたよ。早よそれ脱いでこの絣と着替えて見せて」

舅は姑とわざと間違えたのか、呆けているのか順子を捕まえて服を脱がせようとした。

「あっ、お祖父ちゃん何するの。放して!」

「静江、静江お前どないしたんや」

「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんじゃないの。順子、順子よ!」

順子は必死で逃げようとするが老いたとは言え舅は男、男の力には適わない。セーターを脱がされそうになりシュミーズが丸見えになった。

「あっ、お祖父ちゃん止めて。幸治、幸治来て!」

「大きな声出してどないしたんや。あっ、お祖父ちゃん何しとんや!」

幸治は祖父を跳ね飛ばした。

「何があったんや!」

「お祖母ちゃんと間違えたらしいのよ」

「お祖父ちゃん、しっかりしてよ。朝早くから何処へ行ったのかと探し回ったんやぞ」

舅は正気に戻ったのかしょぼんとへたり込み俯いたままだ。それにしてもどういうことなんだろう、今朝は二回も男に抱かれるなんて要求不満なのかしら。順子は半分はみ出しそうになった胸の部分まで摺り上げられたセーターを慌てて引き下げた。

最近、富に増えたのがシングル・マザーだ。全国で百二十三万世帯に上ると言われる。自立した若い女性は簡単に結婚して些細なことで簡単に離婚して母子家庭となり、又結婚は望まないが子供は欲しいとシングルマザーとなるのが若い女性の間でひとつのファッションとしての地位を築きつつある。女の子は妹として、男の子はボーイフレンドとして連れ歩く。口うるさく世話の焼ける亭主なんか要らない。気楽で誰の指図も受けずに好きなことが出来る。こんな楽しい生活はない。

おまけに児童扶養手当とか養育費とかいろいろ手当てされる。修学旅行代など修学費は唯、病院代も要らない。恵まれていると言えば言えないこともない。

順子はそんな女性の魁と言えば格好いい。だが実情はそんな甘いものではない。子供が一人ならいざ知らず三人も居る。その上に認知症気味の舅まで居る。先が見えない不安が付きまとう。それでも故人には悪いが姑と遊び好きの亭主が亡くなり何か垂れ下がっていた真っ黒な雲が切れて隙間から太陽の光が差し込んできたような暖かな僅かではあるが希望が湧いて来た。順子自身が主になったからだろう。こんな浮き浮きした気分になったのは何年ぶりだろう。そこには自然と女の部分が見え隠れしてどうしても隙間が出来る。

順子は若いはち切れそうな女体を持て余し、今朝のような変な夢を見るのだろう。三十そこそこで後家を押し通すのは辛く酷な話だ。かといって男なら誰でもいいという訳にはいかないし、一家の柱として三人の子供と舅を養っていかなければならない。浮ついてばかりは居れない。母子家庭になったことで諸々の手当てが貰えて当面は遣り繰りが出来るようになり、贅沢をしなければ幸治に朝早くからの新聞配達もさせないで済むようになった。後は子供たちが病気をせず元気で、舅の認知症が進まないことを祈るのみだ。

そんな順子の願いも虚しく、事は望まない方向へ流れて行く。とかく世の中の出来事は儘ならぬのが常なのだろうか。舅の行動は最初は呆けたまねをしているのではと疑っていた。身体は元気で何処も悪いところがない。だから何処までが本当で何が演技なのか分からなかった。

「おい静江、飯は未だか!」

「何云ってんのよ、さっき食べたばかりでしょう。それにおばあちゃんはもう居ないの。亡くなったのよ」

「居ないって、さっきまでそこに寝てたじゃないか。お前毒でも盛って静江を殺したか!」

「何へんなこと云ってるの、死にたいのはこっちよ。馬鹿馬鹿しい」

舅は姑の死を認めたくないのだろう順子に向かって悪態をついた。家の内で言う分には未だ我慢が出来たが隣近所の誰彼なしに告げ口をされるのには閉口した。

近所の人も事情は知っていてくれたがだんだんエスカレートして、幸一を殺したのも順子だと言いふらすようになった。近所の人も最初は気にすることはないよと親切に教えてくれていたが何度も聞かされているうちにそう云うこともあり得るのではないかと疑いの目で順子を見ているように思えてきた。

「順子さんこの頃綺麗になったわねえ。おじいちゃんもお元気でよろしいねえ」

聞こえよがしにそんな皮肉を言う者も出てきた。

「おじいちゃんもう日が暮れて来たし帰ってご飯にしよう」

順子は舅を急き立てて家の中に逃げ込むしかなかった。いくら甲斐性のない亭主でも亡くなってみると隙間風が吹き抜けるような一抹の寂しさがある順子には年老いて相方を失った舅のやるせなさが十分に分かるだけに身につまされてきつい事も云えない。

順子が舅の胸のうちを察して優しくしていると舅はそこに付け込んで調子に乗りなお甘えてくる。子供に帰っていくようであった。甘えるだけなら宥め賺して云うことを聞かせるのだが男というものは真に扱い難い動物である。

女は墓場に入るまでセックスが出来ると云われるが本当はそんな馬鹿な話はないと思う。女は還暦を過ぎると干からびて色気は失せ食べることに集中する。中には厚化粧をして男の気をひこうとする者もいるが、それも背骨が曲がるまでの事だ。その点男は脳卒中で半身不随になり手足が不自由でぶるぶる震えていてもお色気だけはしっかりしているのだろうかお尻や胸を触りたがるものである。舅もやはり男であった。順子の隙あるごとにお尻や腰にすがり付こうとする。さすがに胸までは手を出さないがよろけた振りをして腰にすがり付こうとする。

「おじいちゃん何するの。離してよ!」

「そんなに邪険にせんで、助けてくれよ。立たれへんね」

腰の手を払いのけようとするとなお必死にしがみ付こうとして態とかどうかは分からないが、ズボンの上からではあるが順子の柔らかい女の部分に手が触れることがある。

「あっ!このエロ爺い、何すんのよ」

順子は思いっきり舅を突き飛ばした。

もんどりうって倒れた舅はその場に伏して、

「あ、痛た。あゝ歳はとりたくないもんよなあ、嫁にまで馬鹿にされて情けないわ。おばあちゃん早く迎えに来てくれんか。あゝ痛い、どっか骨でも折れたん違うかなあ」

大げさな悪態をついた。

「そんな憎たれ口聞けるようなら大丈夫だよ。早くおばあさんに迎えに来てもらえるとええなあ」

順子も減らず口を云い返した。

なんやかんや云いながらも舅が未だ元気でいてくれて順子は助かっていた。舅が寝たきりになったら、それこそ家庭が成り立たなくなる。今でこそ介護保険制度が充実しているが、当時は必要性は叫ばれていたが未だ確立されてなかった。姑が病弱だった為に順子は舅の健康に留意し食事には気を使った。

「なんや又魚か、肉食いたいなあ」

子供たちは箸を投げ出して不服を言う。

「仕方ないでしょう、おじいちゃんが居るんだから。年寄りは魚の方がいいの」

「何でや、骨ばっかりで食べにくうてしょないわ」

真二が愚痴をこぼした。

「文句云わないの。魚の方がコレステロールが少なくていいのよ」

「コレステロールってなーに?」

今度は葉子が割って入って来た。

「何やよう分からんけどコレステロールが溜まると血管が詰まっておじいちゃんみたいに頭が可笑しくなるんだって!」

幸治が流石に兄らしく何処で学習してきたのか偉そうに云った。

「何を云っとるか、わしは頭なんか可笑しくねえぞ。馬鹿にするな!こんなイワシばっかり不味くて食えるか。鯛とかヒラメとか白身の魚はないのか」

「おじいちゃん青魚の方が血液がサラサラになるの。贅沢言わないの」

「年寄りだと馬鹿にしよって。あゝ歳は取りたくないね」

「そんなに嫌だったら食べなくてもいいのよ。後で私が食べるから」

順子は一家の主らしく高飛車に出た。

「何も食べないとは云ってねえ、ただ……」

「唯なーに聞こえないわよ!」

「なんでもねえ……」

舅も子供たちも大人しく箸を動かした。順子はじっと舅を見つめていた。可哀想だとは思ったが甘えさせないようにした。甘えから痴呆症がひどくなることを恐れたからだ。

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(二)

このままでは大阪のおばさんたちの憂さ晴らしの餌食にされてしまう。ここはひとつ雰囲気を変えなければいけない。

「そや、ここらで場所替えよや。カラオケに行ってパッと盛り上がろうや」

「そうやね。それもええんちゃう。課長の奢りでっしゃろ」

厚かましいおばはんにうんざりだがここは順子の手前太っ腹を見せない訳にはいかない。

「分かってるがな、この渡辺課長に任しとかんかい。タクシーで行こう。おい女将タクシー呼んでくれるか。二台やで!」

歩いても10分足らずのカラオケ店〝カサブランカ?へタクシーで乗りつけた。

順子はカラオケは初めてだった。酔いが回ってきて何がなんだか分からないうちに十人ぐらい座れる部屋に通された。

「みんな焼酎の水割りでええか」

渡辺は勝手に飲み物を注文しリモコンにリクエストを入れていった。

「課長は何時ものあれでっか」

「あれって何や。気色の悪いこと云うなよ。何やね」

「デュエットですがな。課長の得意な〝男と女のラブゲーム?ですやろ」

「勿論だよ、野暮なこと云うなよ」

行き成り部屋中が割れんばかりの炸裂音でメロディが流れ出した。

「さあ順子さん立って、立って!」

「ええ、何?」

「何って、課長とデュエットじゃないの」

「私歌ったことがないの。こんな歌知らないわ」

「しょうがないわね、一緒に歌ってあげるからさあマイク持って課長の横に立つのよ」

「飲みすぎたのはあなたのせいよ。かわいい女の……」

大きなだみ声で得意そうに歌う渡辺の横に順子はマイクを持って棒のように突っ立っていた。介添え役のおばはんは苛々しながら順子の肩を渡辺の方に押した。順子はよろけて渡辺にぶっつかり倒れそうになった。

「あっ!」

順子は悲鳴を上げそうになったが渡辺が涼しそうな顔で抱き止めていた。

「うっ」

一瞬順子は呼吸が止まりそうになった。

故意か偶然か小柄な順子は渡辺のがっちりした手の平で豊かなバストが掴まれる格好になった。押された弾みとはいえマイクを持ってない片手で支えられた部分がセーターの上からではあったが柔らかい乳房だった。

「おっ、大丈夫かい」

渡辺は手の平の柔らかく弾んだ感触からそれが順子の乳房だと気づいたが慌てて手を引っ込めることもなく、しっかりと受け止めた。もう歌どころではなかった。神経を集中した指の先に感じる心地よい感触がピピット脳に送られインプットされいつまでも残った。順子は華奢な身体に似合わず豊かな胸をしていた。それは三人もの子供を妊娠したせいかも知れない。娘の頃はブラジャーをしていたが三人目の真二を育てる頃には恥ずかしさもなくなり肩も懲り面倒くさくて近頃はノーブラが多かった。幸一が家を出てセックスもなくなり男の人に乳房を触られることもなかった。偶然とはいえ渡辺に乳房を掴まれ女の羞恥心が蘇り少女のように顔を紅潮させた。順子は何か大事な女の秘密の部分を弄り当てられたようで気恥ずかしくまともに渡辺の顔が見られずうつむいたままいつまでも抱かれていた。その偶然の出来事は容易に近づけなかった二人の間の砦を一気に取り払った感じで二人だけの秘め事を共有した錯覚に捕らわれうっとりしていた。

「やだ、順子さんいつまで抱かれとるのよ。そんなことは二人だけの時にして頂戴。嫌らしいわね」

自分で押し倒して原因を作っておきながらおばはんは呆れたような顔をして嫌味を云った。順子はさっと酔いが醒めた感じで何故渡辺に抱かれているのか分からなくなり慌てて部屋を飛び出した。

上着をひったくるように抱え込みカラオケ店〝カサブランカ?を飛び出したものの順子はどうやって家路にたどり着いたものかまったく記憶になかった。バスで帰ったのか二キロもある所を歩いたのかタクシーを拾ったのか記憶が定かでない。気が着いた時は布団の中だった。子供たちはすでに寝ていて舅が何か小言らしきものを云っていたようだったがはっきり覚えてない。目覚めたときは未だ夜が明けきらぬ花冷えのする朝方でパジャマに着替えることもなくセーターを着たままだ。かろうじて上着とズボンだけは脱ぎ飛ばしていた。

順子は隣に葉子が寝息を立てるのを寝たまま横向きになって不思議な感じで見入っていた。頭がずきんずきんと痛む。二日酔いらしい、日頃飲み慣れてないのに酒とビールと焼酎をちゃんぽんにするなんて正気の沙汰ではなかった。夕べの事が幻のように少しずつおぼろげながら蘇ってきた。小料理屋で酒とビールをがぶ飲みしへべれけに酔っ払って下呂したこと。次いでカラオケ店で焼酎の水割りを飲んだような気がする。その辺までははっきり覚えているが後は定かでない。順子は寝返りをして天井を見つめた。桟と桟に挟まれた天井板の節の模様が妙に引っかかった。

「あっ!」

それは男と女が抱き合っているような節目模様が浮かび上がっていた。順子は思わずおわんを伏せたような形のいい乳房を抱え込んだ。夕べの事がはっきりと思い出されて身体全体が金縛りにあったようにキュンとなって顔が熱くなった。

倒れそうになって後ろから胸の辺りをぎゅっと抱えられノーブラの乳房に渡辺の指が深く食い込んだことが乳房の奥に余韻として残っていた。それが再び蘇り幸一の四十九日も未だなのに順子はうっとりとして身悶え、恍惚のうちに再び春の夜明けにまどろんでいった。

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順子絶唱第二章(一)

第 二 章

  

 一

花の命は短い。短いが故に可憐さが先に立ち、散り行く潔さに人は心奪われる。でも春になると又百花繚乱、去年と同じ木に同じ枝に同じ花が咲く。誰が去年散った花と違うと言えるだろう。

義母と夫も花のように何かの形で生まれ変わるのかも知れない。残されたものは生きていかなければならない。生きるためには食べなければいけない。生活に追われ悲しみに明け暮れる時間的余裕はない。ましてや故人の生まれ変わりなど詮索する暇がない。箪笥の上に置かれた骨壷に朝晩手を合わすだけで、四十九日も未だなのに深い悲しみは時と共に薄らいで行く。

桜の花が舞い散る頃順子は幸治と心も晴れやかに地元の中学校の正門を潜った。五つボタンの真新しい制服に身を包んだ幸治は猛々しく急に大人びて見えた。

「幸治、制服よく似合ってるよ。急に大人になったみたいよ。ちょっと後ろ向いてごらん」

順子は幸治の大きな背中に頼もしさを感じると同時に何か熱いものが込み上げて来た。

「よくこんなに大きく育ってくれたねえ。何の世話もしなかったのに。ほんとに」

親はなくても子は育つとはよく言ったものだ。幸治の下に葉子、真二が次々と生まれ幸治の面倒を見る時間がなかった。祖母に任せ切りだった。そんなわけで順子と幸治は親子の縁が薄く、母と子という意識は普通の者より低かった。祖母に死なれてみて改めて母と子なんだなあと実感させられたが、葉子が五年生、真二が二年生それぞれが成長し手が掛からなくなってみると未だ若い順子には親子というより兄弟姉妹のように思えた。実際小柄で丸顔の順子はどう見ても三十歳とは思えなかった。況や三人の子持ちとは想像もつかない生娘のようにも見えた。

順子は渡辺が約束したように四月からチーフに任命された。でもそれは役職名だけで給料が上がるわけでもなく手当てが着くこともなかった。ただ名前だけだ。それでも周囲の者はけなるがった。順子より古参は沢山いた。新参者の順子がチーフになったのは若き未亡人の色香で渡辺を誑し込んだに違いないと噂が乱れ飛んだ。昨日までの順子だったらその場にいたたまれず泣いて帰っただろうが今の順子は強かった。矢でも鉄砲でも持って来んかい、相手になってやるぞ。こっちとら正々堂々の一人もんじゃ、何をしようが勝手じゃ。誰にも迷惑はかけてねえよ。夫の幸一に死なれ悲しみに打ちひしがれ立ち上がれないのが普通なのかもしれないが、順子は天下晴れて独身になって何か肩の荷が下りたというか頭の上にいつも渦巻いていた重石がとれたような感じで気分が爽快だった。順子のチーフ就任祝いという名目で渡辺と四、五人のチーフが集まって飲み会が渡辺の提案で行われた。いきなり順子と二人では気が引けたのか不味いと思ったのだろう。小さな小料理屋に席を取り渡辺は中年のおばさんチーフたちに囲まれて上機嫌だった。あまり酒は強くないのか真っ赤な顔をして順子に酒を勧めた。

「中山順子君、今日は順子君のチーフ就任祝いだ!さあ、遠慮しないで飲んで飲んで」

外に出たことのない順子は今までこんな経験はなかった。どうしたものか分からず迷っていた。お酒を飲むのも三々九度依頼だったような気がする。

「順子さん遠慮することないのよ。渡辺さんが折角あんたのために設けた席なんだから遠慮したら失礼よ。好意に甘えたらいいのよ」

先輩のチーフの皮肉たっぷりの横槍か助言に促されるように順子は盃を一気に飲み干した。

酒なくて何のおのれが桜かな。江戸時代の川柳だが酒のどこにそんな魅力があるのか順子には分からなかった。ただ辛く苦いばかりだ。最近飲酒事故が後を絶たない自分のみか他人の生命まで奪っている。それでも酒は止められない。どこにそんな魔力があるのか。男共は己の人生よりも酒が大事だというそれほど酒は美味いのだろうか。順子も馬鹿にされたくなかった。

「ウヘー、おいしい!」

「よ、よお!順子君いけるじゃないか。さあもう一杯」

順子は勧められるままに盃を突き出した。なみなみと注がれた盃を順子は又もやペロリと飲み干した。

「順子君凄いね。駆付け三杯だ」

酒の飲み方を知らない順子はまたしてもグイッと一飲みにした。そこまでは良かったのだが後が悪かった。今度は胃の方から逆戻りしてきた。順子は口を手で塞いでトイレに駆け込んだ。折角食べたご馳走がこれでもかこれでもかと逆流してくる。死ぬるかと思われるほど順子は七転八倒した。こんなものが何故美味しいのか順子には理解できなかった。それでも順子は胃の中のものをすべて吐き出しすっきりした気分で何食わぬ顔で席に戻った。

「大丈夫?顔色悪いわよ」

「ええ、ありがとう。大丈夫ですよ、さあどんどん飲みましょうか」

「あんた見掛けによらずお酒が強いのね。あっちのほうも強いの」

四十半ばの中年おばはんは云う事がえげつない。あからさまに核心を突いてきた。

「え、あっちの方って?」

「カマトトぶって旦那が亡くなって不自由してんじゃないの。あっちの方はどないしてるの」

順子はやっとあっちの方の意味が飲み込めて赤い顔をますます赤くした。

「子供三人も産んでもう女はもう卒業したわ。これからは母として子供たちと手を取り合って生きていきます」

「何云ってるのよ。あんた未だ三十そこそこでしょう。よく言うでしょう、二十後家は立つが三十後家はたたぬと。これからじゃないの、ほんとの女の部分がわかるのは。晴れて独身になったんだから私たちに遠慮は要らないわよ、誰と何処でエッチしてもいいんじゃない」

おばさんたちは辛辣だ。

「おい、おい。今日は君たちと順子君の親睦のための飲み会や。あんまり苛めるのは止そうよ」

渡辺課長は顔を赤くしてもじもじしている順子に助け舟を出した。

「苛めてるのは課長でしょう。順子君、順子君って無理やり飲ませてるじゃないですか」

「無理やりとは酷いなあ。順子君のチーフ就任祝いだからさあ、そう目くじら立てないでよ。角が立つだろう」

「私たちだってそんなつもりじゃないわ。ジョークよ、突っ込みやってんだから、嫌ねえうまくぼけてよね。課長さんの魂胆は分かってるのよ。私たちを出しにして順子さんに近づきたいんでしょう。私ら婆と違って順子さんはピチピチだもんね」

「冗談じゃないよ。僕には妻も子供もいるんだ。ちゃんと家庭があるんだ。一体どんな魂胆があるって云うんだ。仮にだよ、あったとしたら順子君と二人で飲んでるよ。今日はねえ新旧のチーフの交歓会なんだからよろしく頼むよ」

渡辺は百戦錬磨のおばはんたちを相手にむきになっていた。こんなに簡単に見透かされるようでは後でえらい目にあうようで迂闊に順子に手は出せない。作戦の練り直しだ。

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(十二)

十二

連合町会の福祉会館は何とか葬儀費用を安くするために設けられた地区連合唯一の公共施設だ。会議や講演、講座など各種団体に利用されているが葬儀が最も優先される。町会役員や隣近所の世話役が三々五々集まって来て家族の悲しみなど眼中にないように手際よく葬儀の段取りを決めて行く。だが今回は勝手が違った。一度出来上がった祭壇をもう一度やり直しだ。祖母の静江の祭壇がほぼ出来上がった頃に息子の幸一の仏さんが運ばれて来たから前代未聞のてんやわんやの大騒ぎになった。

「一体どうなってるんだ。母子が一緒に葬式だって!」

葬儀委員長を務める町内会会長は変な事件に巻き込まれるのを恐れて声を荒げた。

「申し訳ありません。夫の幸一が昨夜酔っ払って川に落ちて亡くなっていたんです。偶然の出来事なんです。警察も事件性がないということですのでどうぞ母子一緒に葬式を出させてください。よろしくお願いします」

順子は必死で弁明し頭を下げた。

「その通りなんです。実は私昨夜幸一さんと一緒に飲んでいたんです。お送りすればよかったのですが幸一さんも大丈夫だと云っていましたし方角が違っておりまして飲み屋の前でお別れしました。今思うに遠回りでもお送りすればよかったと後悔しています」

渡辺は露骨に迷惑そうな顔をする世話役の人たちに配慮して順子の弁護をした。

「あんた、見かけない顔だけど誰?」

「あっ、済みません。私順子君の会社の上司です」

「あヽ、そう云うことですか。そう云うことなら一緒に葬儀してあげた方がお婆ちゃんも喜ぶだろう」

葬儀委員長の一言で世話人たちは納得したが傍で聞いていた幸治は奇異を感じていた。

どういう事なんだろう。何故母上の上司である渡辺が父上と一緒に飲んでいたんだろう。何処で知り合ったのか。お酒はあまり飲まない父上が偶然にしても星の数ほどある飲み屋の中で同じ飲み屋で同じ時刻に出くわすとはあまりに出来すぎたおかしな話だ。それに本当に飲み屋の前で別れたのか疑問だらけだ。桜ノ宮辺りの川は川岸に柵が設けられ酔っていたとしても川に落ち込むことは考えられない。もしかして跡を着けられて渡辺に突き落とされたのかも知れない。第一発見者が犯人だったということはサスペンスドラマの世界だけでなく現実にニュースとしてよく報道される。渡辺が第一発見者ではないが唯一順子の亭主だと察したのは渡辺ひとりだったのではないか。だとすれば幸一を殺す動機は十分にある。幸一が死ねば気兼ねなく順子に言い寄ることが出来る。順子も夫が居なくなれば誰と付き合おうが世間の目さえ気にしなければ勝手である。そんなことは有り得ない事だが順子と渡辺が共謀して幸一を殺したのではないだろうか。多感な年頃の幸治は子供らしく馬鹿げたことを想像しながら父親の死に顔を何時までも見詰めていた。祖母が息を引き取った時は背中を向けて壁に凭れて男泣きに泣き涙が止まらなかったが、たった一人の父親が亡くなったというのに涙一つ流れて来ないのだ。どうしてなんだろう。自分でも分からない。多分幸一と幸治の間に親子という愛情があまりにも無さ過ぎた結果だろう。父親として何かをして貰った記憶が一度もない。父親と男の子の間には情は通い難い。同性であるが故に競争心が芽生え、むしろ何かにつけて憎しみが先に立つのだろうか。

人間生きてるうちは憎い、此畜生くたばれと罵っていてもいざ死なれてみると虚しさだけが胸の中を吹き抜ける。人の死は哀れを伴うものだがそれがない。横になっているだけだ。息を止めているだけだ。死んでなんかいないんだ。好き勝手に生きて好き勝手に死ぬなんてあり得ない。人間死ぬほどの勇気があったらもっと父親としてやれる事が他にあった筈だ。それはやれなかったのか、逃げてばかりの父親をやらせないように追い詰めたのだろうか。子供である幸治には父親が死ななければならなかった理由が分からず息をしてないことが信じられず死を認めることが出来なかった。

そんな幸治の戸惑いにも関係なく渡辺は家族の一員であるかのごとく馴れ馴れしく葬儀屋と争議委員長の間を走り回って葬儀は進行して行った。末期の水で唇を濡らし、枕経が終わり、いよいよ納棺の儀になって父の遺体が棺に収められる段階になって幸治は父の死が夢ではなく現実のものであるという実感が胸を突き上げて来た。

「親父!親父なんで死んだんやあ!親父!」

何時もの虚栄ではなく真の親子になって悲痛な叫び声を上げ遺体に取り縋って慟哭した。

全ての悩みや苦しみを超越し全く善人のように口元に仄かに微笑さえ浮かべている穏やかな死に顔は何なんだろう。

「親父、よかったね。最後に親孝行が出来て。しっかり道案内してくれよ。生んでくれて有難う。後のことは任せてくれ。みんなを守るからな」

幸治は父親に対して抱いていた一切の不満や復讐心みたいなものが雪が解けるように胸中から消えて感謝の念さえ生じたのか一人で意気がっているように見えた。

「お爺ちゃん邪魔だからそこどいて!」

幸治が怒鳴った。葬儀屋が祖母の棺の横に幸一の棺を並べようとした時だった。

棺に取り縋って祖父の国次が離れない。

「こいつは誰だ!ここに入るのは俺だ!俺が亭主だ。誰だこいつは!」

「お爺ちゃん!」

順子は異様な舅の振る舞いに驚くと同時に目頭が熱くなり涙が溢れ出るのを抑え切れなかった。最愛の妻と一人息子を同時に失ったのだから頭がどうにかなるのは当然の成り行きだった。戦後のごたごたの中を二人で力を合わせて何とか飢えを凌いで来れたのは妻の才覚によるものが多かった。その頼り切っていた妻に先立たれ憔悴しきっている舅に追い討ちを掛けるようにもう一つ棺が持ち込まれ妻の横に並べられたのだから驚愕しないほうがおかしい。一粒種の息子の顔も識別できないほど舅の頭は壊れていた。

「お爺ちゃん、しっかりしてよ。あんたの息子の幸一さんだよ。酔っ払ってね、川に落ちて亡くなったの」

順子は幸治に手招きし優しく二人で舅を抱え幸一に最後の別れをさせようとした。

「幸一?お前どうしてこんな所に居るんだ。未だ戦争は終わってないんだぞ。お国のために戦かわずにこんな所で寝ている場合か!」

云ってる事は理路整然としているようだが頭の中がこんがらがって支離滅裂だ。己と息子が同一人物になり時間が全く錯誤されていた。

「早よ起きろ!起きて銃を構えろ」

「お爺ちゃん寝ているんじゃない。死んでるんだ」

「死んでる?そんな訳ないだろう。幸一が死ぬ訳がない。だって幸一は子供なんだよ。子供が戦争に行くわけがない。戦争に行かないのにどうして死ぬんだ。誰か殺したのか?そいつを連れて来い」

まるで駄々を捏ねる子供だ。

「幸治お爺ちゃんを早く向こうへ連れてって!」

春から中学生になる幸治は力では舅に負けてなかった。が、舅は姑の棺に取り縋って離れようとしない。

「嫌や、嫌や!静江の傍がええんや」

最早あの厳格な舅は何処にも居なかった。

「ほんまに可哀想やね。奥さんと一人息子さんが一度に亡くなったんだから気も可笑しゅうなるわさ。お気の毒にねえ」

「ほんやけどお婆ちゃんは癌やったんやろ。何回か手術しても助からなかったやろうけど幸一さんはどうして亡くなったの?」

「それやがな、幸一さんは一年も前から親父さんと大喧嘩して家を飛び出していたんやがね。不思議なことにその幸一さんがお祖母ちゃんが亡くなる前の晩に川に落ちて亡くなったらしいよ」

「へえ、するとそれは何ですか以心伝心ってやつですかね」

「さあそれはちょっと以心伝心とは云わないんじゃありまへんか」

「そうですよね。それ以上のものが我が子の身を案じる母親の愛情と言うか情念みたいなものが幸一さんを呼び寄せたんじゃないですか」

「なんと痛ましい事ですな……

隣組の世話人たちは舅の醜態を哀れに思いながら同情するように囁き合った。

「それにしても順子さんはどうするんでしょうな。三人も子供を抱えてこれから先どうやっていくんでしょうか」

「順子さんは前々から旦那と別れたがっていたようだけど、旦那が亡くなった以上別れることも出来ないわね」

「えっ、そうなの。別れられないの?」

「相手が死んで亡くなった以上、相手が居ないんだから別れる必要がないと云うか理由がないって事よ」

「だってさあ、順子さんは未だ三十才くらいでしょう。あの若さでずっと独りなの?」

「あんた何考えてるの。旦那が亡くなったばかりなのに色気違いじゃあるまいし早や再婚ってことないでしょう」

「そんな事云ってないじゃありまへんか、暮らしはどうするのかと云っているんですよ」

「そうよね、子供三人だけなら未だしもあのお爺ちゃんが居たら再婚も難しいだろうし順子さん本当にどうするんでしょう」

お節介小母さん達はお茶を出しながら同情半分興味半分で好きなことを喋っていた。

本来なら舅が喪主を勤めるのが筋なんだろうけど舅は強い衝撃を受け常軌を逸していた。已む無く順子が喪主を務めた。貸し衣装の喪服は順子にピタリと似合い何か近寄りがたい気品に満ちていた。それは順子自身が生まれてかってないほどの緊張を強いられたところから自然と湧き出たものだろうか。それとも厳粛な葬儀の式典から醸し出す淑やかさが順子の身を包んでいたのだろうか。会葬者一人一人に丁寧にお辞儀をし謝意を表す順子は母と夫を一度に亡くした悲劇の主人公としてスポットライトが当てられ妖精のような異様に怪しい色香が漂っていた。喪服に身を包まれた若き未亡人順子はもうそれだけで好奇の眼差しで見られ参列者の陰口の餌食になっていた。そんな事はお構い無しに順子は堂々と謝辞の言葉を述べた。

………。母と夫はこれからはあの世で手を取り合って楽しく過ごすことでしょう。母は病魔と闘いながら生きていく道を教えていただきました。夫は私に何物にも代え難い三人の子宝を授けて貰いました。私は母の教えに従い、夫亡き後も大変な苦労が待っているものと存じますが粉骨砕身石に噛り付いても三人の子どもと力を合わせて強く生きて参ります。どうか亡き母、夫存命中………

順子の気丈夫な謝辞に陰口を叩いていた参列者の中からもすすり泣く声が漏れ、ハンカチを目頭に当てる者もいた。静江と幸一の遺影を喪主の順子に続いて幼子の葉子と真二が抱えて霊柩車に向かうあまりにも惨く哀れな姿に全ての会葬者が改めて涙した。出棺その大事な場面に舅の国次と幸治と姿はなかった。異様な興奮状態にある国次を幸治は宥め賺して抱き止めていたが焼香の時は大人しくしていたのに別れの儀献花の段になって又もや静江の棺に入ると言い出して暴れまわった。これ以上醜態を曝け出すことは出来ない。幸治は祖父を控え室に閉じ込めるしか方法がなかった。

順子は開きかけた火葬場の桜の蕾を涙の流れる眼でじっと見詰めていた。ぼやけた眼に淡い煙が立ち上っていくのが滲んで映った。

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(十一)

十一

世間には息子を間にして嫁姑の軋轢が生じ葛藤が絶えないのが通常なのかも知れないが順子と姑の静江の場合は全く逆だった。息子の幸一が生さぬ他人で順子と静江が本当の母娘のような存在だった。出来の悪い息子の為とは言え順子を庇いきめ細かく指導してくれた。年が若く世間知らずの順子は姑に逆らっては生きてゆけなかった。今日まで三人の子供を育て生きて来れたのは全て姑がいたからだ。その姑がこの世から居なくなるなんてとても信じられなかった。命あるものは何時かは必ずその生命を終えるときが来る。姑も今度はもう駄目だろうとかねてより順子は覚悟はしていたが現実に目の前で息を引き取った姑の亡骸が俄かに信じられず、これが今生の別れかと我を忘れて息をしていない姑に取りすがって嗚咽した。

「イヤッ!お母さん、お母さん死んじゃイヤッ!」

何時までも泣き叫ぶ順子を尻目に看護士は鼻や耳の穴に脱脂綿を詰め込んでいった。舅は呆然と立ち尽くしているだけだ。

「母上、しっかりしてよ」

幸治は子供ながらもやっぱり男の子だ。悲嘆に暮れる順子は幸治に抱きかかえられたが背骨を抜き取られたようにへなへなとして立ち上がることが出来なかった。

静江の遺体は直ぐさま安置所へ移され霊柩車で葬儀場へと運ばれた。

人の世の無常を嘆く暇もなく葬儀社はマニュアル通りに事を運んだ。

「しっかりしなくては……」

順子はともすれば滅入りがちになる自分の背中をどやしつけながら自分に言い聞かせた。

「今晩七時からお通夜で明日午前十一時に葬儀と言う事でよろしいですか……

順子と葬儀社が打ち合わせをしている最中に天満警察から電話が掛かって来た。

「天満警察ですが中山さんですか」

「はい。そうですが、どんな要件ですか」

「中山順子さんは居られますか」

「母上、天満警察から電話です」

幸治は訳が分からいまま受話器を順子に渡した。

「えっ、何。何処から?」

順子は受話器を持ったまま自分の耳を疑い幸治に確認した。

「天満警察だって」

「警察……

何で又こんな取り込み中に警察とは、順子の頭の中は瞬時に悪い予感が走馬灯のようにぐるぐる回り、警察に厄介になるような事は身に覚えがない。子供たちが万引きでもしたのだろうか。痴呆症気味の舅が何か迷惑を掛けたのだろうか蒼ざめた声で応対に出た。

「はい、中山ですが……

「天満警察ですが中山順子さんですね」

「はい、母が亡くなって取り込み中なんです。何か知りませんが後にしてください」

「いや、ちょっと待ってください。ご主人は居られますか」

「えっ、主人?主人は居ませんが主人がどうかしたのですか」

「やはり居られませんか。奥さん気をしっかり持って聞いてくださいよ。今朝ご主人らしき男の人が大川で死体になって浮かんだのです」

「ええっ、何ですって!主人の死体?そんな馬鹿なことありませんよ。大晦日には元気だったんですよ」

「会社の渡辺さんに事情をお聞きしましたところお宅のご主人ではないかと思われますのでご足労ですが身元確認して頂けますか」

「本当に主人は亡くなったのですか……

「お気の毒ですが……とにかく署まで御出で確認してください」

「なんと云うことだ……」

順子は血の気を失い力が抜けて眩暈がしバランスを失いその場にへたり込んだ。脳味噌がそっくりどっかへ吹き飛んで思考能力を無くした。今朝方義母が亡くなったばかりなのに今度は夫が……そんな偶然がある筈がない。殺してやりたいほどにくい夫だったがいざ亡くなったと聞くと嫌々ながらも肌身を許した仲、心の奥の隅っこに何時かは戻ってくるだろうと期待する一縷の望みが残っていたのだろうか俄かには信じ難く悲哀が全身に大津波のように襲って来た。本当は悲しくて大声で泣き叫びたいのだろうが涙も出て来ない。

「母上、何があったのです」

「本当にどうなさったのです」

幸治と葬儀屋は同時に声を掛けた。

「お父さんが……お父さんが亡くなったって!」

不幸な事は重なるとよく言われるがそれは他人事でまさか順子自身の身に降りかかるとは順子は人の世の無常を嘆き神の悪戯を呪った。誠実に慎ましく生きてきたのに何故こんな惨い仕打ちを受けなければならないのか。何を信じて生きればいいのか。しっかりしなきゃと自分を励ましながらも頭の中が壊れていくのを押さえかねていた。順子は突然立ち上がり受話器を放り投げた。

「母上、本当に父上が亡くなったの」

母の異変に驚きながらも父の死が信じられない面持ちで受話器を拾い元に戻した。と、同時にベルがけたたましく鳴った。又警察かと幸治は慌てて受話器を取った。

「会社の渡辺ですが順子さん居られますか」

何れ警察が連絡するだろうとは思ったが、渡辺は順子の上司だ。慰めようのない相次ぐ訃報の電話することを躊躇したが人の生死に関わることであり、順子の亭主であってみれば知らん顔は出来ない。黙っていては反っていらぬ誤解を生み、恨みを買いかねない。それよりも何とか順子を勇気付け、手助けせねばとの思いが先に立った。

「順子さんこんな時になんですが警察から何か連絡がありましたか」

「は、はい、今天満署から夫が亡くなったから確認に来るようにと……でも私信じられないの。どうしたものか……

蚊の鳴くようなか細い声が渡辺の心に沁みた。

「順子さんしっかりするんだよ。詳しいことは後は話すから。今直ぐ会社の車で迎えに行くから一緒に警察に行こう」

「有難うございます。厄介ばかり掛けます」

渡辺からの電話で順子は少し生気を取り戻した。

「幸治、会社にも電話があったらしいわ。お母さん警察に行ってお父さんかどうか確かめて来るから葬儀場へ行っておじいちゃんや葉子たちを看ててね。葬儀屋さん主人が亡くなったかもしれないの。そうだとしたらおばあちゃんと一緒に葬式出来るかなあ」

「葬儀は明日だから仏さんが二十四時間たっているかどうかが問題になります」

「今朝亡くなったと云ってたから二十四時間は立つんじゃない」

「そうですね。二日続けての葬式より出来ることなら一緒にした方が仏さんも心強いかなあ。あっ、これは失礼」

「そうよね……

順子は渡辺の運転する社名入りの営業車の助手席で小柄な身体を益々小さくして固まっていた。何か悪いことをして警察に自首しに行くような惨めな緊張感に襲われていた。

「本当に吃驚しました。今でも信じられません」

渡辺は昨夜来の出来事をミステリードラマのナレーターのように解析明瞭に推理展開したが順子の耳には届かなかった。頭の上を黒い暗雲が矢継ぎ早に過ぎ去っていくのみであった。

「はあ、そうでしたか」

と、小さな声で答えるのみで特別な感情は示さなかった。順子には自分勝手な行動をとった幸一が許せなかった。大騒ぎをして人様に迷惑をかけ、今から死にます。直ぐに見つけてくださいよと言わぬばかりに選りに選って大阪のど真ん中で死ぬなんて!順子へのみせしめかそれとも復讐なのだろうか。いずれにしても一言もなく残された者の迷惑も考えず自分だけが悲劇のヒロインになることが許せない。

「本当に順子さんのご主人だと分かっていたら何としてでも止められたのにごめんねえ」

家庭内の惨憺たる状況をひっくり返して丸見えにして、好意を抱く渡辺に悪いのは全て妻の順子だと言わぬばかりの仕打ちに耐えられなかった。

「あんな男死んでくれて、ほんと良かったわ」

順子は本心とも思えない涼しい顔で強がりを云った。その阿弥陀様のように美しい横顔に一瞬冷やりとしたものが走ったのを渡辺は見逃さなかった。男は可愛いものでその冷たさが堪らなく大好物で虜になっていくのである。渡辺も例外ではなさそうだ。

地下の霊安室は線香の香りが漂い北向きの枕元に誰が活けたのか一輪挿しにゆりの花が一本挿してあった。順子たちを案内した刑事は顔にかぶせていた白い布を取りながら、

「ご主人に間違いありませんか」

と念を押した。順子は渡辺に促されて恐る々る顔を覗き込んだ。

「うぅっ。あんた!」

男と女の情は分からない。順子は一変して誰憚ることなく髭面の幸一に取り縋って大粒の涙を流した。今まで突っ張っていたつっかい棒が取り外され一気に押し潰され崩れていく順子が居た。人の死はどんな状況であれ、例え憎い人であっても悲しいものだ。義母に続き夫までが一日にしてこの世から居なくなる。もう二度と会えないのだ。こんな悲劇があっていいものか。順子は寂寥感に覆い潰されそうになった。

「検死の結果溺死と判明しました。水とアルコールが検出されました。覚悟の入水自殺かと思われます」

「覚悟の入水自殺ですって!どう云う事ですの!」

大声で泣いていた順子が突然立ち上がり刑事に食って掛かった。

「外傷も無く他殺とは考えにくく状況判断から入水自殺ではと推測されます」

「警察は人の死を推測で決めるのですか!」

「馬鹿なことを云っちゃいかんよ。さっきから説明してるようにお母さんに最後の別れをして、もういいだろうと言ってお釣りも受け取らずにあんたとの写真を抱いて川に浮かんだ。誰が見たって後追い自殺だよ」

「それは全て辻褄あわせですよ。証拠があっての絶対的なものじゃないですよね!」

順子は都会に出て来て十五年、自分でも吃驚するほど世間を気にするようになっていた。いらぬ風評が立ち子供たちへの影響を恐れた。

「分かりました。それではどうすればいいんです」

「ですから酔っ払って足を踏み外したとか……

「そうですよね、事故死ですよ。これは」

渡辺は食い下がる順子に大人しいだけではない意外な一面を見て感心しながら応援した。

「事故死ね……そう簡単にはいかないんだ。何しろ人一人が死んでるんだからなあ」

「ですから主人は自殺するような人じゃないんです。そんな勇気があったらホームレスなんかになりませんよ」

「それはどういう意味だ」

「ホームレスの人が殴り殺されたり餓死することはあっても自殺することはないって事です」

「だけどなあ、ご主人はどう見たって自殺だと思うんだがね」

「どうしてそう決め付けるんです。よしんば自殺を考えていたとしても主人はそれを実行できる人ではないんです。最後は躊躇するんです。勇気のない弱い人間です。酔っ払って転落したんです」

「何故そんなに事故死に拘るんだ。保険でも掛けてるのか」

「アホらしい。そんな余裕が何処にあるんです。あんたには分かりませんか!もし仮に主人が自殺だとしたら世間はなんと言います。奥さんが冷たいから自殺したんだと。残された子供はどうなるんです。お前の父さんは川に飛び込んで自殺したんだといじめの対象になりますわよね。その責任は誰が取りますの」

渡辺は横で聞いていて、ちょっと言い過ぎではないかとはらはらどきどきしながらも日頃大人しい順子から想像も出来ない能弁ぶりに女は強いと感心もした。子供の頃教室では目立たなかった子が大人に成って急に周囲を取り仕切る活発な女の子が居る。今の順子がまさにその典型で迂闊に口は出せないなあと用心した。

「そういう事か。いずれにしても捜査会議で決まることや。ちょっと待っとけ」

「どのくらい?」

「わからん」

「早よしてなあ。おかあはんが待ってるんや。一緒に三途の川渡してやりたいがなあ。その方が心強いやろ」

「ほんまに大阪の姉ちゃんには適わんなあ」

結局外傷もない事だし、一介のホームレスの死は事件性もないと言う事で事故死に決着された。

「どうもお世話になりました。仏さんは引き取っていいんですね」

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(十)

 

 十

 順子達が息急き切って病院へ駆けつけた時舅は待合室の電話で誰かと話していた。

「お祖父さん誰に電話してるの?お祖母ちゃんの容態は……」

「あヽ、順子か。結婚式の引き出物どうしたものかと思ってなあ」

「結婚式の引き出物?何云ってるのよ、お祖母ちゃんが大変なのよ!」

順子は舅を急かしてエレベーターの乗降口に走りよりボタンを押したが、こんな時に限って中々エレベーターが下りて来ない。

「どうしたんだろう。故障かしら」

「やっぱり瀬戸物がいいかね。夫婦茶碗とか花瓶とか、それとも骨壷がいいかあ……」

「何バカなこと云ってるのよ」

順子は舅が変なこと云いだすし苛立って何度もボタンを押した。

「母上、落ち着いてよ。慌てても仕方がないでしょう」

幸治の方がしっかりしていた。病室では主治医が脈を取り、注射をしていた。

「先生、どうなんでしょう」

「うん……逢わせたい人が居るなら今のうちに知らせてあげなさい」

姑は意識があるのかないのか呼吸が暫く止まり思い出したように又息をした。

「お母さん、お母さん!」

順子は姑の耳元で叫び続けた。

「幸一、幸一」

突然姑は夫の国次でもなく順子でも孫の幸治でもなく、幸一の名前を呼んだ。やはり独り息子の幸一のことが最後まで気掛かりなんだろう。

「幸一、幸一未だ冷たかろうにお前何で川の中に居るんだい」

「お母さん、来てご覧よ。綺麗だよ。レンゲやタンポポが一杯だよ。母さん早く々々」

幸一は子供に帰って無邪気に母と戯れていた。

「ほんとだね。綺麗だね。お花の楽園みたいね。幸一!」

姑は最後に独り息子の名を呼び、大きな息をしたかと思うとそれが最後だった。

 孝行したい時に親は居ないとよく言うが幸一は親が亡くなってから始めて親孝行らしきものをした。軽くなった母を背中におんぶして咲き乱れるレンゲ堤を走り回ったりタンポポの花を摘んで母の白い髪に挿してやった。綺麗に花で飾って三途の川を母を背たろうて渡るつもりらしい。

 幸一の死体が天満橋の橋桁に引っかかるようにして浮かんだのは朝の通勤ラッシュが始まった頃だった。天満橋の上や中ノ島の公園はたちまち野次馬を決め込む黒山の人だかりになった。そこへ偶然にも飲み屋の亭主が朝の仕込みのため通りかかった。

「何かあったんですか」

亭主は車のウインドーから聞いた。

「溺死だよ。死体らしき物が橋桁に引っかかっているんだ」

誰かが叫んだ。

「えっ、溺死!男ですか女ですか」

「男じゃねえか。レインコートが見えるんだ」

「レインコート……」

亭主は慌てて車を置いて引き返してきた。夕べから何か思い詰めたように一万円札を押し付けてつり銭も受け取らずに出て行ったレインコートのホームレスのことが気になって夜半近くまで寝付けなかった。もしやあの男ではないか死体の引き上げ現場まで近付いていった。

「おいおい、見世物じゃないんだ。近寄ってはならん」

お巡りさんは両手を広げて群集を制止していた。

「すみません、夕べのお客さんじゃないかと気になりまして……レインコートを着ていました」

亭主は額の皺に律儀そうな表情を見せていた。

「何!レインコートを着ていたお客さん……そうか近寄ってよく見てくれ」

亭主は近寄って両手を合わしてお辞儀をして恐る々々頭を上げた。

「あっ、この人です。間違いありません……」

青白く血の気のない幸一の顔を一瞬見ただけで気持ちが悪くなり思わず顔を背けた。

「で、名前は?」

「いや初めてのお客さんで名前は知りません」

「知らない?ちょっと署まで来てくれるか

亭主はまるで殺人犯のようにパトカーに乗せられ連行された。

取調室の机の前に神妙に座らされて事情聴取を受けた。

氏名、年齢職業等を聞かれた上に夕べの経緯を細々と尋ねられた。

「それで、要らない金だと云って一万円札を置いていったんだな」

「へえ、おかしいなあとは思ったんですが確かに要らない金だと……

「そうか、金は要らない……母親の後を追うつもりだったのかも知れんな」

「へえ、夕べは何か胸騒ぎがして眠れませんでした。今思うに最初からその心算だったつもりだったんでしょうね。あの飲み方は尋常じゃなかったです。可愛そうに……

「じゃあ馴染みの客じゃなかっただな」

「見たこともない一見さんでした」

刑事は飲み屋の亭主の事情聴取から恐らく他殺ではなく覚悟の死であることは間違いないと読んだ。

「身元さえ分かればはっきりするんだが……名前も住所も分からないか……遺留品はこの写真だけやしなあ。この女は誰だろうなあ。夫婦にしては若すぎるしな。第一綺麗過ぎるよ」

刑事は幸一が母の枕元から持ち出したのであろう写真を亭主の前に出し思案していた。

「あっ、順子、順子と云っていました。奥さんですわ」

「順子、ほんとにそう云ったのか」

「そうだ。渡辺さんが知っているかもしれません」

「何、渡辺?そいつは誰だ」

「へえ、時々飲みに来る常連さんです。順子って名前を聞いたとたんに立ち上がって何か聞きたそうでした」

飲み屋の親父から聞いた刑事が写真を持って渡辺を訪ねて来たのはお昼の外食から帰ったところだった。

「渡辺課長、警察の人が尋ねて来られています」

経理の女子事務員が走り寄ってきて青ざめた顔で渡辺に告げた。

「何、警察?」

「はい、会議室で待っています」

「渡辺君、君何かやったのか」

部長が寄って来て皮肉なことを云った。

「冗談じゃありませんよ。何にもしてませんよ」

渡辺は脂汗をにじませ、ネクタイを締め直して会議室に向かった。

「何なんだろう?」

渡辺は会議室へ向かう途中で緊張の所為か急に小便がしたくなった。

便器の前に立って放尿しながらいろいろと思い巡らして見たが、警察にご厄介にならぬような事は何一つ思い当たらなかった。通勤電車の中で女の子のお尻を触ったこともなければ言い寄った事もない。

駐車違反は振り込んだし、誰か身内の者が交通事故か何かやらかしたのだろうか。

頭の中がぐるぐると錯綜するだけで気が焦るばかりだった。

ここまでくれば言い逃れは出来まい。なんだか分からないがぶち当たって見るしかないか。渡辺は腹を括って会議室のドアをノックした。

「渡辺さんですか」

二人の刑事が立ち上がって警察手帳を見せた。

「はい、渡辺ですがどんな用件でしょうか」

「まあ、腰掛けてください」

「ええ」

渡辺は刑事と対座する形でソファーに腰掛けた。

「早速ですがこの写真ですがどなただか分かりますか」

刑事は順子と幸一が並んでいる写真を机の上に置いた。

「あっ、当社の山中順子君じゃないですか。えっ何、順子君が……

順子と云いながら渡辺は急に冷や汗がブアっと噴出してきた。順子に訴えられるようなことは未だ何にもしていない。

「私たちはそんな親密な関係じゃないですよ」

渡辺は何にも聴かれてないのに先手を打ったつもりだったが馬脚を現していた。

「いや、そんなことは聞いていません。男性の方はご存知ですか」

「ええっ、男性……あっ!この男。夕べ飲み屋で騒いでいた男じゃないですか」

「そうですか。飲み屋で会ったんですね。何か云っていましたか」

「はあ、お袋が死にそうだとか……

「お金の事は」

「はいお金は要らないとか云って一万円札を置いて行きました」

「間違いないですね。やっぱり自殺かな。それじゃちょっと中山順子さん呼んでもらいますか」

「中山は今日休んでいます。自殺って!あの男が死んだんですか」

お昼前順子から義母が亡くなったので休ませてくださいという電話があったばかりだ。刑事はちょっと躊躇したがめがねを掛けた刑事は同僚に伺いを立てるようにめがねをずりあげながら見上げた。

……うん、自殺かどうか未だ分からんが大川で仏さんになって浮かんだよ」

少し年上だろうか四十がらみの刑事は少し言い渋った。

「えっ、本当ですか……

渡辺は声が震え顔から血の気が引くのを自分でも分かった。

「それでこの男の人は順子さんのご主人ですか?」

昨夜来あの男はもしかして順子の夫ではないかと疑念を抱いていた。写真を見せられて順子の夫であることを確信したが念を押さずには居られなかった。

「身元が分からなくてね。それでお宅の知り合いじゃないかと飲み屋の亭主が云うもんで確かめに来たんですよ」

「そうですか。それで合点がいきました。写真を見る限りでは恐らく中山順子君のご亭主でしょう。でも何で自殺なんか……奥さんと可愛い子供さん三人も残して……

何ということだ。相次いで義母と夫がが亡くなるなんて。渡辺は熱いものが込み上げてきて声が詰まった。あの時同僚が止めるのを無理にでも話を聞いてやればあの男は死なずに済んだかも知れない。ましてや順子の夫と分かっていれば何としてでも止めたであろう。

何が原因で自らの命を絶ったのだろうか。あんなに色白で可愛く若い妻がありながら何が不満だったのだろうか想像も着かなかった。癌に侵され明日をも知れぬ母、その上に少子化傾向にある今時三人もの子供を抱え生活に押し潰されたのだろうか。まさか可愛い妻子に何か問題があるとは考え難かった。残された順子が可愛そうで不憫でいたたまれない気分に襲われた。明日から順子はどうするのだろう。何とか力になってやりたいが今の経済力、地位ではどうにもならない。まして自分にも家庭があり二人の子供を持つ父親なのだ。幾ら好意を持っているとは言え何の手助けも出来ない自分が情けなく歯がゆかった。

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(九)

地球の温暖化が懸念され始め、その冬も暖冬が予想されていたが正月こそ大阪でも雪がちらちらしたが京都ほどではなく比較的過ごしやすい一、二月だった。今年は桜の開花も早いなあと期待されていたが三月に入って寒の戻りが厳しく桜の開花が遅れていた。小康状態が続いていた姑の静江の容態が急変したのは三月ももう終わりだと言うのに桜の蕾が縮こまるほどの強い寒気が吹き荒れる早朝だった。夜の長い早朝は未だ明けきらず真っ暗だった。けたたましい電話のベルに舅も順子も吃驚して跳ね起きた。電話の近くで寝ていた舅が電話に出たが慌てていて電話の声が良く聞き取れない。

「えっ、えっ?」

順子が二階から駆け下りてきて受話器をひったくった。

「はい、お婆ちゃんの容態が急変……はい分かりました。直ぐに参ります」

「どうした?」

「お婆ちゃんが危ないって……お爺ちゃん先に病院へ行って。子供たちを起こして連れて行くから」

舅は予て覚悟はしていたであろうが来るべきものが来たかと言う感じでその場にへたり込んでしまった。

「お爺ちゃんしっかりしてよ。おばあちゃんを看取ってあげないかんでしょう。あんたの奥さんよ。タクシーで一緒に行く?」

「おお、そうやわしの嫁はんや。準備せなならん。先に行くで」

舅は取る物も取り敢えず単車で飛び出して行った。

順子は舅の準備せなという言葉が少し気になったが、タクシーを呼んで二階へ上がり子供たちを起こした。

「幸治、早よ起きてお婆ちゃんが危ないんだって。暫く休ましてって配達所に電話して」

「危ないって、お婆ちゃんが死ぬのか」

「分からへんけど長くはなさそうよ」

「ここ一両日が山だろうから身内の人に連絡してください」

病院からの電話をそのまま幸治には云えなかった。一縷の望みさえ断ち切るような残酷な状況を口に出せば順子自身が崩れてしまいそうだった。

「しっかりしなくちゃ」

順子は今にも流れ出そうとする涙を押し込み自分にも言い聞かせた。

「ぐずぐずしないで早く服を着替えて……」

子供たちの洋服を着替えさせようとするが手が震えてボタン一つ満足に出来ない。一刻を争うと言うのに次男の真二は事態を飲み込めず大きな欠伸をしたかと思うと再び布団に潜り込もうとする。

「寒いよ」

「お婆ちゃんが大変なの。早くして!」

可愛そうにと思うがつい苛立って怒鳴ってしまう。化粧をするどころではなかった。乱れた髪を撫で付けただけでタクシーに乗り込んだ。

「あっ、ちょっと待って!」

車は動き出していた。

「何なのよ、母上」

「家の鍵したかしら」

気が動顚していて今したことを覚えていない。順子は急いで車を降り引き返して確かめた。鍵は掛かっていた。やれやれと言う感じで車に戻った。

「すみません。早く行ってください」

「鍵なんかどうでもいいのに。どうせ盗られるものなんかないんだから」

幸治の減らず口に順子は何にも答えなかった。急に幸一の姿が目に浮かんだ。姑にとってはたった一人の子供だ。会わせてやりたいが連絡の仕様がない。あいりん地区辺りでうろついているらしいとの噂は風の頼りに聞いていた。憎い亭主ではあったが親の死に目にも会えない幸一が哀れに思えた。今となっては遅すぎる。総てが終わりだ。

順子の優しい心遣いを知ってか知らずか、幸一は明日をも知れぬ母の静江が死の床で必死に呼び寄せたのか偶然だったのか昨夜こっそりと病院を訪れていたのだ。恐る恐るドアを開け母のベットを覗き込んだ。

「おふくろ。おふくろ……」

小声で呼んで見たが聞こえているのかいないのか、やせ衰え子供のように小さくなった母は起き上がる体力も物を言う気力もないのか目を閉じたままだ。もう意識がないようにも見えた。時々苦しそうに喘ぎ人工呼吸器の下でヒィーと大きく息を吸い込み暫く呼吸が止まり又思い出したように喘いでいた。枕の具合が悪いのだろうか幸一は軽くなった頭の下に手を入れて枕を直してやろうとした。すると枕の下から写真らしきものが見えた。誰の写真なんだろうと引き出してみると形ばかりであったが幸一と順子の結婚式の写真だった。晴れ着を着ているわけでもない二人は普段着のまま神妙に並んでいるだけであった。母はそれを時々取り出して眺めながら何を思っていたのだろうか。やはり母親が思うのはたった一人の子供である幸一のことばかりだったのだろう。父親には逆らっても母親が家にいた頃は口答えはしても無茶なことは出来なかった。母さえ元気でいてくれたら家を飛び出すこともなかったであろう。不運だった。幸一は運のなさを嘆くと同時に母の期待に沿えなかった己が情けなく目頭が熱くなり一筋の涙が零れた。

「おふくろごめんなあ。親不孝ばかりして……」

幸一はしゃがみこんで頭を母にこすり付けて詫びた。

暫くはしゃがみこんだまま動かなかった幸一は思い直したように立ち上がり写真を元の枕の下に直そうとして枕を少し持ち上げると一万円札があった。意識がある時分に幸一が何時尋ねてきても直ぐ渡せるように常に枕の下に写真と共に隠していたのだろう。母親の愛情はお金で図れるものではないが細やかな深い情がひたひたと幸一の胸を打った。幸一は再びしゃがみこんで忍び泣いた。

一体自分は何のために生まれて来て何のために生きているのだろう。幸一は今まで生きてることの意味を真剣に考えたことはなかった。唯その日その日が楽しければよかった。何とか飯が食え一日が終わり、何処でもいい眠れたらよかった。何より屈辱に耐え齷齪働くのが一番苦手だった。何故人間は朝早くから夜遅くまで独楽鼠のように働かねばならないのか分からなかった。

「働かざるものは食うな。出て行け!」

親父は何時も一つ覚えのようにそう怒鳴っていた。

幸一は生まれつきのぐうたら男だ。でも好き好んで怠け者になったわけではない。幸一はそう言い訳をする。

世の中には秀でた才能や長けた器用さを身に着けている者がいる。幸一は俺には何にもない。己は何の努力もせず人間として生きている価値を見出せず不公平を嘆き世間を罵った。

人間はほんの少しでも希望があれば金が無くても職がなくても生きてゆける。だが今の幸一には虫けらほどの夢もない。コンビニの売れ残りの弁当を漁り日雇いの仕事に逸れなければ何とか生きては行けるが何のために生きているのか分からなくなった。家族から逃げ、唯一の友だった兄貴分の黒田からも逃げ人生からも逃げ出し自ら生きる希望の芽を摘み取りもがき苦しんでいた。真っ暗な先の見えないトンネルから逃げることに心身ともに疲れ、最後に只独りの味方である母に怨みつらみを述べ愚痴を聞いてもらいたかった。母は何も聞かず何にも言わなかった。が、母の心情は枕の下に敷きこんだ写真と一万円札で幸一にはよく分かった。でももう遅かった。

本当は母に最後の別れをしたくてのこのこやって来たのだ。只独りの母でありながら顔の輪郭がぼやけてどんな目や鼻や口の形が思い出せない苛立たしさがあった。はっきりと焼き付けておきたかった。目は眠っていたからよく分からなかったが鼻は以外に小さく唇は皺だらけだった。

「おふくろ、おふくろが危ないって順子から聞いてびっくりしたよ。おふくろの居ない人生なんか俺にはないんだよ。親より先に死ぬほど親不孝はないと言うが不幸次いでだ。生きていたって皆に迷惑を掛けるばかりで俺には先がないんだ。夢も希望も気力もない。もういいだろう。堪忍なあ。先に行ってるよ」

「亭主、熱燗もう……もう一本!」

「お客さん、もうそのへんにしときなさいよ。結構召し上がりましたよ」

病院をこっそり抜け出した幸一は京橋近くのいっぱい飲み屋でちびりちびりとやっていた。顔を真っ赤にした幸一の前のテーブルには空いた徳利がごろごろ転がっている。

「親父みたいな口利くな!くそ面白くもねえ。酒だ、酒くれ!」

「お客さん静かにしてください。他のお客さんに迷惑ですから」

「何!酒を飲んで何が魅惑なんだ!」

「分かりましたよ。もう一本ですよ」

居酒屋の亭主は横目で止める女房を尻目に渋々徳利を持ってきて念を押した。

「おい亭主、お前も女房に尻に敷かれてる口かい」

「ええまあねえ」

テーブルに零れた酒を拭き取りながら渋い顔をした。

「情けないねえ。あんな女房なんか捨てちまえ!スッキリするぜ」

「そうでしょうかね」

幸一の強気な発言に乗るまいと亭主は愛想笑いで誤魔化そうとした。

「そうでしょうかねはないだろう。おらなあ、女房子供を捨てたんだ」

「奥さんと離婚なすったんですか」

「離婚じゃねえよ。捨てたんだ!親父もお袋もなあ」

「へエーご両親も」

居酒屋の亭主は酔っ払いの云うことを本気では聞いていなかったが幸一に調子を合わせて半分呆れながらも驚いて見せた。

「そのお袋が死にそうなんや……何一つええ事がなかったろうに……」

幸一は泣き声になり声を詰まらせた。

「ほんまでっか。おふくろさんが死にそうなんですか」

人のいい亭主は突然の幸一の豹変振りに慌てた。

「ほんまや。癌が再発してもう意識もないんや。息子が見舞いに行っても分からへんのや。最後の別れや云うのに何にも云わんのや。こんな悲しいことがあるか!飲まんとおれんのや」

「そりゃお気の毒ですなあ……」

亭主は揉み手をしながら恐縮してうろたえていた。

「ちょっとそこのお兄さん、ええ加減な事ばっかり云ってそんな格好でおふくろが死にそうだって!なんぼ酔っ払っていたって人の生き死にをネタにするんじゃないよ」

人のいい亭主が何処で手に入れたか、寝ても覚めてもこの一着で過ごしているのであろう臭いのする薄汚れたレーンコートー姿の幸一に同情するのを見かねて我慢出来ずに細君が口を出してきた。

「おばはん、俺が嘘を云ってると云うんか!そりゃ嘘は一杯付いてきたが今日は違うでえ。今日の俺はなア、今日の俺は……」

空元気で勢いよく怒鳴っていたかと思うと仕舞いには声が詰まり泣き出す体たらくだ。

「うちはな陽気にお酒飲む所や、湿っぽい話は何処か他所でやっとくれ!」

「何様のつもりや!ここは客の選り好みをするのか。そりゃ俺はなあ情けない男や。おふくろに心配ばかり掛けて何一つ親孝行らしきものはしてこんかった。でもなあお袋は何にも云わんのや。苦しそうにヒイヒイ云ってるだけや。俺はよう最期まで看取らんかった。おふくろが何悪いことをしたと言うのだ。悪いのは俺だ。死なないかんのはこの俺だ……」

「そうや、死んで詫びないかんのはあんたや。奥さんが逃げるのも無理ないわ」

「順子はそんな女やないぜ。順子はいい女やった。でもなあ最近は冷とうなって息子までが邪険にしやがって……」

云ってる事が支離滅裂だ。幸一は徳利を傾けて最期の一滴をお猪口に注ぎ未練たらしく徳利の尻を叩きながら、

「おい亭主酒がないぞ。酒持って来い!」

その時先ほどから隣のテーブルで同僚と飲んでいたサラリーマン風の中年の男が立ち上がろうとした。順子の上司の渡辺だ。が、同僚が止せと言う目配せをしながら袖を引いた。渡辺は順子の身の上とよく似ているなあと黙って聴いていたが男の口から順子という女の名前が出てやっぱりそうかと放って置けない気分になったのだ。

「あんた!順子っていったね。順子って奥さんの名前かい?」

「ああ、そうだよ。それがどうかしたか!」

「いや、ちょっと知ってる人と同じ名前だったんで……」

「止めとけって。相手は酔っ払っているんだ。関わらない方がいいんだ」

尚も立ち上がって順子との関わりを確かめようとする渡辺を同僚は必死に座らせた。

「お客さんこんな男に関わらない方がいいですよ。どうせ出任せですよ。同情を引いて只で飲み食いしようって魂胆ですよ。人のいいうちのアホ亭主は直ぐに引っかかりますのや。何処で聞いてきたんだか、どうせろくな人間じゃない。ホームレス仲間なんでしょう」

「ホームレスの何処が悪い!ホームレスだって同じ人間だ。誰が好き好んでホームレスになるか!お前らだって先のことは分からんのだ。明日にでもホームレスになるかもしれんのだ。馬鹿にしよって!

「ほーら本性を現したね!」

「亭主酒は未だか!こんな女の何処がいいんだあ、早く別れちめえ!」

「大きなお世話よ。酒なんか出さなくていい!」

「おめえに云ってるんじゃねえ。亭主に言ってるんだ!」

「偉そうに云ってるけどあんた金あるのかい。何本飲んでると思ってるんだい」

「馬鹿にするのもいい加減にしとけよ。今夜はなあ、静かに昔の事を思い出しておふくろと別れようと思っていたのに……おふくろと何処か遊びに行ったのは淀川ぐらいしかないんだ。河川敷にレンゲやタンポポが一杯咲いていてよ。ほんまに綺麗かった。あの時の握り飯は旨かったなあ……」

急に低い声で独り言のようにしゃべった幸一は暫くうな垂れていた。女将も身につまされたのかそれ以上何も云わなかった。

「おふくろ、もういいだろう」

何がいいのか誰もわからなかった。

「皆さんお騒がせしました。女将さんお金ここに置いておくよ」

幸一は病室から持ってきた一万円札をテーブルに置いて出て行こうとした。

「お客さんお金はいいんですよ」

女将は慌てて幸一を捕まえ一万円札を返そうとした。

「女将さん有難う。もう要らない金だから……」

「えっ、あんた!」

「大丈夫ですよ。俺もまともな人間の心が取り戻せたような気がする」

飲み屋ではた迷惑も考えず悪態をつき、懺悔と言おうか一気に憂さを晴らした幸一はすっきりした気分で一万円札を女将に押し付け春だというのに肌冷えする闇夜の中へふらふらと消えて行った。

何処をどう歩いて来たのか幸一は幼き日母と遊んだ淀川の堤防に向かっているのだろうか、支流の大川の桜の宮付近を未だ酔いが醒めない千鳥足でふらついていた。

「梅は咲いたか桜は未だかいなあ」

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(八)

 

 八

幸一は三万円をくすねて家を飛び出したものの行く当てがなかった。掛け麻雀とは言え黒田に十万円の借金があり、それを返さなければ殺すと驚かされて気の小さい幸一は意を決して父親に詫びて家族のために地道に働くつもりで実家に逃げ帰ったが、運が良かったのか悪かったのか偶然順子が万札の紙幣を座布団の下に隠すのを見つけた時一大決心が鈍り、順子が背中を向けて流しに立った隙に悪魔が囁いた。

「今だ。座布団の下だ」

悪魔に背中を押されて素早く座布団の下に隠された三万円をポケットに忍ばせた瞬間に幸一の運命は決定づけられた。厄年を迎えて男としての真価が問われる大事な節目でありながら安易な道を選び二度と浮かび上がれない奈落の底に落ちて行くのみであった。もう再び家族として迎え入れられることはないだろう。家庭での居場所、家族との絆を自らが断ち切ったのだ。

物陰に潜んで順子と幸治が抱き合った姿は悪い夢でも見てるように幸治が大人びて見え幸一と入れ替わったように錯覚させられ夫の座も息子に奪われたような気がした。「なんでだ!どうなってるんだ!」

幸一は自問自答した。自ら蒔いた種とはいえ自分だけが悪いのか。天は神は俺ばかりを苦しめて何の救いの手も差し伸べてはくれない。才能も知恵も与えてくれないどころか地球上の全てのものが幸一を非難し攻め立てているように思えた。今の幸一には家族や身内より黒田の方が信用でき頼りになった。その黒田の信用を失うまいとして家族を裏切り見放した。愚かな自殺行為で幸一は背中の荷物を降ろし身軽になった気がしてこれからは気ままに自由に生きられると無理やり自分を納得させた。そこにしか生きていく術がなかった。

「しかしたったの三万円で黒田は許してくれるだろうか……」

多少の不安はあったが兄貴分ともいえる黒田のことだから許してくれるに相違ない。幸一は勝手に判断して駅の方へゆっくりと歩き出した。

未だ明け切らぬ駅のホームには始発の電車を待つ乗客があちこちに散らばっていた。初詣に出掛けるのだろうか髪をアップに結い上げ晴れ着に着飾った若いカップルがふざけ合う姿も見られたが、幸一はベンチで身も心も寒さに耐えるかのように小さく丸まってコンクリートが張られた冷たい地面の一転を見詰めたまま何を考えるでもなく固まっていた。初詣はおろか目出度い正月は行き先の見えない今の幸一には尚更ジーンと人の世の寒さが身に沁みていた。

キ、キ、キッとレールに車輪が冷たい空気に炸裂音を伴って軋みながら電車がホームに入って来た。つり革にぶら下がった幸一は前の座席の乗客が開いているスポーツ紙に目が釘付けになった。そこには明日開催される競馬のメーンレース金杯の予想がでかでかと掲載されていたが上からの角度では詳しいことは読み取れなかった。

「これだ!」

急に青ざめていた幸一の顔に血の気がさしてきて紅葉して来た。大阪駅で降り立った幸一はあたふたとキヨスクに向かった。三種類ものスポーツ紙を買い込み地下の喫茶店に入った。

「ちょっと悪いけど赤鉛筆かしてくれない」

ウェイトレスは怪訝そうに頭をかしげていたが奥から赤のボールペンを持って来てくれた。幸一はテーブルの上にスポーツ紙を広げ本命、対抗を除き懸命に穴馬を探し出していた。一攫千金を夢見ているのだ。

「何としてでも黒田の兄貴に十万年きっちり返さなくては……」

二時間ばかりコーヒー一杯で粘り、ある結論を見出したのか幸一はうきうきした気分で喫茶店を出た。

地下街は歩けないほど人々で溢れていた。正月休みで皆それぞれにふるさとに帰省したり海外旅行に行っている筈なのに梅田の地下街だけは初詣や福袋が目的なのか着飾った老若男女で賑わっていた。幸一だけが行く当てもなく邪魔者扱いのように思え地上に逃れた。地上は流石に風が冷たく葉を落とした落葉樹が棒のように幸一と同じように取り残されていた。幸一は急に不安を覚えた。メーンレースは各紙が面子を掛けていろいろと情報を集め綿密に分析し予想する。だからほとんど荒れることなく本命か対抗が連に絡んでくる。大穴は期待できない。幸一は再び風をよけるため地下街に戻り人込みの少ない一角に座り込みスポーツ紙を広げ予想をやり直しに掛かった。各紙の本命を絡ませて予想して見たがどうも配当が悪く面白くない。対抗から行くと組み合わせがが広がりすぎて迷うばかりだ。幸一は馬の血統や前走までのタイム、追い込みや最近の馬の調子など新聞の隅々まで目を通したがますます分からなくなり頭がこんがらがって来た。

幸一は日頃いっぱしの勝負師を気取って一応の口上をのたまったがやはり勝負師ではなかった。素人に毛が生えた程度だ。

地下の一角で夜通しあれこれとレースの展開を予想し眠れぬ一夜を過ごした。幸一は何時もお世話になっている難波のウインズは黒田と鉢合わせになる恐れがあると考え梅田にあるJRAのウインズに向かった。

その日の京都競馬場は前日の雪で重馬場になっていたため一レースからやや荒れ気味であった。幸一は運試しに二、三のレースを少し買ったが駄目だった。最後に今日は荒れるなと読みメーンレースの金杯にすべての金をつぎ込んだ。結果は本命対抗の平凡なレースになり幸一はすってんてんになった。幸一は青い顔をしてウインズの階段の隅にうずくまったままだ。

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(七)

 

 七

大晦日の夕方順子たちが新婚以来住んでいたアパートの周りをうろうろする男が居た。怪しく思った管理人の小母さんがその男に声を掛けた。

「あの……何か御用ですか」

「いや、ちょっとね。ここに住んでたんですが……」

無精ひげを生やし草臥れたコートを着た男は二階を見上げながらしきりに首を捻っていた。

「何だ幸一さんじゃないですか。あんまり変わっているので吃驚しましたよ。お元気でした」

「ええ、まあ。十二号室電気が点いてないんですが、未だ誰も帰っていませんか」

「ああ、順子さんなら引っ越してお舅さんと暮らしていますよ」

「そうですか……」

歳の暮れになると男はやはり家庭が恋しくなるのだろうか幸一は未練げに二階をもう一度見上げながら呟いた。そこへ物陰からもう一人のサングラスを掛けた男が近寄って来た。。

「どうした?」

「引っ越したらしい」

「引っ越した。何処へ?」

「管理人も知らないそうです」

「知らないで済むか。どうする気だ!」

男はいきなり幸一の首を締め上げながらドスのある声で脅した。

「苦しい!何とかしますから助けてください……」

「何とかするって、どうするんだ」

男は少し手を緩めた。

「四国の親戚に頼んで見ますから二、三日待って下さい」

「ほんまやなあ。しゃないな三日やぞ!」

男は念を押して舌打ちしながら立ち去った。

家を出た幸一はパチンコ屋の店員になったが相変わらず勤務状態が悪く半年足らずで首になった。好きなパチンコや賭け麻雀で暫くは食いつないでいたが、そんなに世の中は甘くない。行き詰まった幸一は無銭飲食をして逃げたりしていたが、スーパーで万引きをしてとうとう捕まった。幸一は謝るだけで名前も現住所も明らかにしなかった。怒った警備員は幸一を警察に突き出した。

取調室では流石に幸一も観念して四国から出て来てパチンコ屋に就職したが首になり、つい魔が差してやったと自供した。警察はパチンコ屋に電話をして裏を取った。初犯でもあり、たいした罪でもなかったので始末書だけで詳しくは身元調査はせず、麻雀仲間の男に身柄を引き渡した。

幸一はその麻雀仲間の男から金を借りたのだ。

幸一は苦し紛れに金を借り、身元引き受け人にまでなってくれた黒田に嘘をついた。今の幸一には身内の者より一番頼りに出来るのは黒田だった。その黒田に何としてでも誠意を見せなければならない。父親の出である田舎の親戚に直接金の無心は出来ない。ましてや順子の実家は論外である。住所不定ではサラ金も闇金も相手にしてくれない。盗みを働く勇気もない。結局頼るところは順子だけだった。

順子は紅白歌合戦が終わり皆が寝静まっても正月用の煮炊きで遅くまで起きていた。やっと正月の準備が終わり卓袱台の前に腰を降ろした。舅が渋々出してくれた三万円と三つのぽち袋を前にして、これからの一ヶ月間の遣り繰りを考え子供たちのお年玉をどう配分したものかと思案し大きな溜息を着いていた。

と、そこへ玄関のガラス戸を叩く物音が聞こえた。空耳かと耳を澄ますと

「順子開けてくれ。俺だ。俺だよ」

小さな幸一の声だ。

「え、」

順子は突然の幸一の声に吃驚して迂闊にも三万円をそのままに立ち上がりドアを開けた。そこにはみずぼらしい幸一が立っていた。

「あんた!」

「しっ…親父は?」

幸一は人差し指を唇に当て、舅の存在を確認した。

「もう寝てるわよ」

「そうか、お腹空いているんだ。悪いけど何か食わしてくれ」

幸一は辺りを見渡して誰も居ないことを確かめてドアを閉め悪びれもせず部屋に入ろうとした。順子はこんな夜更けに帰ってきた主人を追い返すことも出来ず已む無く迎え入れた。順子は慌てて卓袱台の上に並べてある三万円を座布団の下に隠した。幸一は目ざとく紙幣に眼が行ったがそれを気付かない振りをして態と草臥れた靴をきれいに並べて上がって来た。

「食事が終わった後だから何にもないの」

「そんな事云わずにおせち料理か何かあるだろう」

「おせち料理なんか出せないわよ。インスタントラーメンだったらあるけど…」

順子は家庭を無責任にも放り投げて自分勝手なふしだらな生活をする幸一が許せなかったが、十年以上も夫婦として共に暮らした情は薄らいだとは言え切り捨てることは偲び難いものがあった。薄情な夫を頼りにせず何とか子供たちを育てようと一時は決心したがあまりにも荷が重過ぎて、一日でも早く帰ってくれるよう願う思いが胸の片隅にあった。精神的には弱かったが身体だけは頑丈な夫が生まれ変わり真面目に勤めてくれるのではないかと一縷の望みを抱いていた。ほんの少しではあったが女の喜びを知らしめてくれたのも夫だった。だが、一年足らずの間に肩の肉が落ち、見る影もないあまりの変わりように順子の心は潮が引くように押し流されていた。快活で優しい渡辺がちらりと浮かび、夫を他人の目で見る順子だった。既に心が離れてかけている幸一が横柄な主人面をするのが苛ただしかった。

「ラーメンでもいいよ。朝から何にも食べてないんだ。早くしてくれ」

「分かったわよ」

順子は背中を見せる格好で流しの戸棚から鍋を取り出しお湯を沸かそうと水道の栓を捻った。ザアッと水が蛇口から溢れ出た。その瞬間幸一は座布団の下の三万円を抜き取っていた。

そんな事とは露知らず順子は渋々食事の用意をして卓袱台の上に並べた。

「済まんな。順子綺麗になったなあ」

歯の浮いたようなお世辞を云いながらラーメンにがっついた。

「………」

順子は取って付けたような幸一のお世辞を聞き流しながら、無言で情けない姿の夫をを哀れみの目で見つめていた。

「旨いよ。生き返ったよ」

インスタントラーメンが美味しいと言う夫が家を出てから今まで何処で何をしていたのか問い質すまでもなかったが、一応聞いて見てやる事にした。

「何の連絡もしないでどないしていたん」

「うん、パチンコ屋の店員だ」

幸一は胡散臭そうに云った。

「そう、何処の?」

「ああ、ミナミの方のね」

「へえ……それでどうしてお腹が空いてるの」

「いや、店長がうるさい奴でな辞めて来たんだ」

「そんなことだろうと思ってた。これからどないするの」

「親父は未だ怒っているのか」

「かんかんよ」

「そうか。お袋はどないやねん」

「へえ……あんたでもお母さんのことが気になるの」

「当たり前じゃないか。たった一人のお袋だぞ」

「たった一人のお袋をほっぽり出して出て行ったのは何処の誰なの」

「そんなこと聞いてるんじゃないよ。お袋は元気かと聞いてるんだ」

「元気な訳がないでしょう。心配ばかり掛けて。何時まで元気でいられるか分かったもんじゃないわ。見舞いぐらい行ったらどうなの!」

「そんなに悪いのか。それにしてもお前、偉く強くなったなあ。もっと優しく云えんか」

「どうしてあんたみたいな無責任な男に優しく云わんならんの」

話をしている間に順子は無性に腹が立って来てつっけんどんな態度になった。

「そうか、こんな冷たい家には帰れんな!」

夫は立ち上がって又出て行こうとした。順子は大人しく出て行く幸一の様子に不審を抱いた。食事の金もない夫が金の無心もせず黙って出て行くわけがない。思わず反射的に座布団の下に手を入れた。

「無い!」

手には何も触れない。慌てて立ち上がりよれよれの座布団を引っくり返した。

「お金がない!」

順子は座布団の裏表を何度もひっくり返した。

「あんた!」

順子は玄関に降りようとする夫にすがり付いた。

「何だよ」

夫はすがり付く順子を振り払おうとしながら靴を履こうともがいた。

「あの金はお爺ちゃんが呉れた子供たちの給食費とお年玉よ」

「何の事だ。さっぱり分からんよ」

「嘘おっしゃい。座布団の下に三万円あったでしょう!」

「座布団の下が見える訳がないだろう。俺知らないよ」

「座布団の下に隠すところをあんたは見たのよ」

「見てないって。放してくれ」

「今の今まであったものが無いのよ。あんた以外に誰が盗るの」

「放せって。俺の知ったことか」

「何の騒ぎだ!こんな夜更けに近所の手前も考えろ!」

突然舅の国次がガラス戸を開けて隣の部屋から飛び出して来た。

国次は男の話し声で目は覚めていた。その話し相手が幸一だと分かり、よく帰ってくれたとホット胸を撫ぜ降ろし気付かぬ振りをして狸寝入りを決め込んでいた。いくら勘当したとは言え一人息子だ。胸の底では何時も安否が気掛かりで仕事が手に付かない時もあった。姑の静江の容態が思わしくない昨今何時順子も男の所へ走るか気が気でない。縫製の仕事も今は寸法直しぐらいでほとんど無い。ちまちまと爪に火をともすように蓄えた貯蓄も静江が癌になり羽が生えたように飛んで行く。せめて頼りにならないまでも幸一が居てくれたら順子を引き止めることが出来るのではと幸一を追い出したことを悔やむ日々であった。その幸一が帰って来た。今年は元旦早々目出度い。何かいいことがあるのではないか。もしかしたら静江の癌が治るかも知れない。そんな甘い期待が突然打ち破られた。

「お父さんに貰った三万円幸一さんが盗ったの」

順子は必死に幸一にしがみ付き国次に訴えた。

「ほんまか」

「嘘だよ。順子は濡れ衣を着せてネコババしようとしているんだ」

「父上卑怯ですよ。母上に罪を着せるのは男らしくないです」

いつの間にか二階から降りてきた幸治は冷静な物腰で父親を諭すように云った。

「何!。幸治お前は父親を信用しないのか」

「出来ないですね。日頃の生活態度を拝見しているとどちらに非があるか一目瞭然です」

「何だその口の利き方は。親に云う言葉か。生意気な事ばかりぬかしやがって!子供は引っ込んでろ」

「親なら親らしくして下さい。こんな父親なんていらないよ……」

幸治は久しぶりに会った父親のみずぼらしさよりも心の貧しさに耐え切れず涙声で訴えた。夢の中では立派な社会人になり何時か家族を迎えに来てくれるのではないかと笑顔で抱き逢える日を期待していた。

「幸治二階へ上がってなさい。幸一子供にこんな事云われて恥ずかしくないのか。順子ともう一度やり直すために帰って来たんだろ。皆お前が帰ってくるのを待って居たんだぞ」

国次は落ちぶれた幸一を目の前にして昨日までの怒りを抑え年寄りらしく優しい言葉で宥めた。

「ごめん……俺この金が無いと殺されるんだ!」

叫ぶなり幸一は順子を振り払い玄関を飛び出した。

「あんた、あんた!」

順子は後を追った。

「父上、父上!」

幸治も二階から駆け下り順子の後を追った。

「父上は?」

息を切りながら順子に追いすがった。

「何処かへ消えた」

順子はその場にへたり込んだ。寒風の夜空に星が一際美しく瞬いていた。

幸一が順子の目の前から雲隠れしたように順子の幸一に対する心も氷点に達し凍り着いていった。

「母上大丈夫ですか。どこかお怪我でもなさいましたか」

幸治は優しく薄暗い街灯に照らし出された泣き顔の順子を覗き込みながらハンカチを手渡した。

「ええ、大丈夫よ。ありがとう」

順子はハンカチで涙を拭いながら幸治を見上げた。これが夫の幸一ならどんなに幸せだろう。たった三万円のお金で妻を捨て子供を見放し家族を見限る夫が許せない。全く箸にも棒にも掛からない情けない夫だ。それにしてもどうしてこうも夫とは正反対の子供が生まれたのだろうかと不思議に思うと同時に優しい言葉と裏腹にその奥に背筋が冷たくなるような幸治の目が光っているように思えてならない。やはり夫の投げやりな血を引いているのだろうか。何時からなんだろう。幸治が年上の者に必要以上に丁寧語を使うようになったのは。何故殊更に聞き苦しい子供らしくない情の通ってない馬鹿丁寧な言葉を使うのだろう。

「幸治!お前どうしてそんな馬鹿丁寧な言葉遣いをするの。大学生でもあるまいし母上なんて呼ばれたら背中が痒くなるわ。お母さんと言いなさい」

「はい、畏まりました。配慮を欠きまして相済みません。以後注意いたします」

「その言葉遣いがいけないのよ。変に誤解されるわよ。本当はあんたは優しい子なんだから」

「そうでしょうか……」

何がそうなのかお茶を濁したような幸治の返答に順子にも幸治にも互いの心の内は読めなかった。

「もういいわ。あんたにもそれなりの訳があるんでしょう。お爺ちゃんが心配してるわ。あんなお父ちゃんなんかほっといて帰りましょう」

「母上、今でも父上を愛してるの?」

突然の幸治の質問に順子は戸惑った。子供だと思っていた幸治の口から愛と言う言葉が出たことに吃驚すると同時に順子たち夫婦をどのように見てるのだろうか。迂闊に子供の前で父親を愛してないとは云えない。人の心のうちは例え夫婦の間でも血を分けた親子でさえも相手が何を考えているのか分からない事が時として多々あるからだ。

「幸治はどうなの。あんな父親は要らないって云ったけど……」

「母上に聞いてるんです。夫婦の縁は切れても親子は切れないってテレビで云っていたけど子供のお年玉まで持っていくような父親は居ない方がいい!」

未だ六年生の子供にまでこんな事を云わせるような夫が憎らしかったが幸治にまで夫を憎ませてはならない。順子は何かを決心したように涙を拭い力強く立ち上がった。

親がこうあって欲しいと望めば望むほど正反対の方向に子供は走って行きブレーキが効かない。大厄を迎えると言うのに幸一は大人に成り切れず責任を果たそうとしない。国次や順子にもどうすることも出来ない。全く幾つになっても子供は親の希望通りにはならないものだ。親の理想どおりに育ったとしてもそれが果たしてその子の本当の幸せかどうかは別にしてもだ。人生には節目が幾つもある。節目節目でどの道を選ぶか判断を迫られる。幾つもの道から何れを選択するかは本人に委ねられるが、人間は弱いものでたやすい方の道を選びたがる。本当はそれが茨の道である事を認識していても甘い誘惑に負けてしまう。困難を回避して現実に目を背け欲望と堕落の道を突き進む。それが神が創造した本来の人間の姿なのかも知れない。

「幸治お父さんは決して悪い人ではないの。弱いだけなのよ。だから恨まないで……」

順子は幸治を引き寄せ強く抱きしめた。

「幸治、母さんもねあんな父さんは要らない。忘れる。今日からはあんたが頼りなの。あんたが父親になるのよ」

順子は夫婦と言っても好きで幸一と結ばれた仲ではない。半ば暴力で強引に犯され幸治を身篭り已む無く夫婦になったが形式だけで心底好きには成り切れなかった。子供が欲しくて結ばれた訳でもなく幸治は幸一と順子の鎹に過ぎなかった。それでも幸治が五体満足で無事に産まれたときは天にも昇る嬉しさだった。世界中の幸せを一身にかき集めた様な心地良さだった。大抵の夫婦は皆似たり寄ったりで子供が出来て初めて本当の夫婦になるのだろう。そこから互いに助け合い愛のある家庭を築くものだ。順子は幸一を夫として好きになろうと幸一の意のままに従順に妻の役目を果たして来た。だのに幸一は助けるどころか責任の重さから逃げてしまった。

「この幸治が父親になるの?」

幸治は父親になる意味が良く分からなかった。

「そうよ。年も新しくなったし、今年から幸治も中学生でしょう。中学生はもう大人よ。お父さんの代わりになって母さんを助けてね」

「大人、父親代わり……」

幸治の頭の中でその言葉がぐるぐる回り何か急に背丈が伸びたような気がした。それでなくても最近下半身にちょろちょろと五、六本薄毛が生え出し気になっていた。大人に成るんだ。順子に抱きしめられて柔らかい胸の隆起から心地良い鼓動が幸治の身体の中に入って来るような気がして下半身がうずうずと変化していくのを抑えきれずにいた。

幸治は父親似なのだろうか六年生ながらクラスでは背丈が大きい方で少し小柄な順子より大きく見えた。幸治も順子の脇の下から手を回し抱きしめたい衝動に駆られたが、恥ずかしさが先に立ち下半身の変化を悟まれまいと腰を引いた。

「母上安心して幸治頑張って父上の代わりをするよ」

「ありがとう。頑張ってね」

順子は未だ小学生でありながら父親の愚痴も言わず代役を果たそうとする幸治が不憫でいとおしく更に力強く抱きしめた。

「母上……」

幸治も柔らかい弾力の女性に意識して抱擁されたのは初めてで何がなんだか分からなくなり夢中で背中に手を回しがむしゃらに抱きついた。

薄暗い星明りに映し出される母子の抱き合ったシルエットは物陰に身を潜め隠れている幸一にはまるで若いカップルの熱烈なラブシーンに見えた。

「お前ら何しとんね!」

怒鳴りながら飛び出して行って二人を突き放したい衝動に駆られたが、喉がカラカラになり声帯が引き攣って声にならない。何か見てはならないおぞましいものを見ているようで竦んでしまい足腰に力が入らず立ち上がることも出来ない。

「うぅっ……」

子供だと思っていた幸治の力強い抱擁に思わず呻き声をあげた。

「幸治苦しいよ……あっ!」

順子は下半身に何か突き刺さるものを感じた。

「えっ、何?」

女である順子にはそれが男の子の誰もが経験する成長過程であることは分からない。予想もしなかった幸治の異変した物であることに気付いたが、時すでに遅かった。寝巻きの上からではあったが順子の柔らかい部分に刺激され、幸治自身も未だ嘗て経験したことの無い快感が背筋を通り抜け幸治のパンツの中のそそり立った物がどくどくと悲鳴を揚げた。

「あっ……」

幸治は放尿した時のような感覚に囚われたがその気配がない。気だるい心地良さと共に全く異なった違和感が残り股に射精したものがべとついていた。男の子はある年齢に達すると夢の中で射精を経験する。それが夢精なのだが幸治は意識がはっきりしていているさ中での射精だった訳で有精と言うべきかも知れない。夢精の知識も経験もない幸治にはそれが何を意味してるのかさっぱり分からなかった。

「幸治おしっこがしたいの?」

子供は小水が溜まると朝起ちする事がある。まさか射精とは考えも及ばない順子は頓珍漢な事を云った。

「あゝ、我慢出来ないから早く帰ろう」

便所に駆け込んだ幸治はトイレットペーパーで太股や下着に着いたべとべとした物を拭き取ったが下着は濡れたままだ。冷たく気持ちが悪かったが恥ずかしくて誰にも云えず体温で乾かすしかなくそのまま布団に潜り込んだ。

「幸一はどうした?」

三万円を持って行かれ途方にくれている順子に国次は順子と同じように落胆したように尋ねた。

「三万円持って何処かへ逃げたわ」

「そうか。仕様のない奴だな。元気でいることが分かったんだからそのうち金が無くなったら帰ってくるだろう。あんな奴のことはほっといて寝よう」

国次は順子を慰め自分にも言い聞かせようとしていた。

布団に潜った幸治は下半身が冷たいこともあったが先程の事が思い出され目が冴えて眠れなかった。

「どう云う事なんだろう」

最近の幸治はテレビや週刊誌での影響で女性の身体に興味を持ち始めたのは事実だった。それが最も身近な母親に抱かれて反応した自分の身体の変化に嫌悪感を抱いた。

幸治は自分の下半身を手で触って見たが少し皮がむくれて先端が覗き出した以外は何の変哲もないものだった。どこかに異常があるのか尚も弄くっていると突然またしてもにょきにょきと頭を擡げてきた。

「えっ、どうして?」

慌てて手を引っ込めた。学校でも未だ性の事は習ってない。大人も誰も教えてくれないし恥ずかしくて誰にも聞けない。自分は他の男の子と違って特異体質なのかと不安を抱き始めた。唯でさえ大きな家やマンションに住む同級生の手前おんぼろ長屋の我が家が恥ずかしく引け目を感じていた。大学生でも使ってない敬語で相手を萎縮させ優位な立場に立とうとわざと大人の前では虚勢を張って来た。それが効き目があるのかないのか自分でもよく分からなかったが、大家の中村や近所のやからが親父の存否や祖母の病状を親切ごかしに聞いてくる。

「親父さんは達者か。何の仕事をしとんねん」

「はい父上は存命で只今出張中です。何か父上に御用でも」

と答えてやったら呆れたような顔をして隣の爺はエヘンと咳払いをして家の中へ引っ込んだ。

「どうおばあさん、少しは善くなったの。大分入院が長いようだけど」

向かいの婆の顔には再発やしもうアカンのやろうと言う表情がありありと読み取れた。

「有難うございます。次第に快方に向かっておりますのでどうぞ見舞いに行って下さいませ」

逆に見舞いを催促されて向かいの婆は照れ笑いを作りながら背中を向けた。幸治は貧しさと家族のごたごたに小さな胸を痛めていた。それに加えて下半身の異常だ。

幸治が小学校を卒業して中学生になる新しい年の元旦の夜明けは未だ明け切らない。悩み多い人生の最初の節目をどう乗り切ればいいのか、道筋さえ見つからないまま幸治は冷え冷えとしたせんべい布団の中で寝付かれないままもがき苦しみやっとうとうとし始めた。そんな幸治の悩みにも気づかず順子は暮らしに追いつめられていた。

「幸治時間だよ」

順子がそっと耳元でささやいた。寝入り端を起こされて幸治は夢遊病者のように順子を引き寄せ抱きついて来た。

「えっ、どうなってるの?」

順子は慌てて幸治を跳ね除け立ち上がった。

「幸治、しっかりしてよ。新聞配達の時間よ」

「ええっ。もうそんな時間……」

跳ね飛ばされた幸治はやっと目が覚めたらしく眠い眼を擦りながら丸い壁掛け時計を見つめた。

「嫌やったら新聞配達何時辞めてもいいのよ」

戦後の新聞小僧と持て囃された時代とは違い今時新聞配達をする子供は居ない。雨が降っても風がきつくても毎朝暗い内に起き、マンションの階段を昇り降りしなければならない。大人でさえも配達する人が居なくて幸治のような子どもでも新聞配達をしてくれれば販売所は助かっていた。

「母上、心配しなくてもいいよ。平気だから」

幸治は素早く服を着替え、顔を洗った。

「風邪引かないようにね。車に気をつけるのよ」

マフラを首に巻いてやりながら順子は幸治を送り出し、凍りつくような寒風の中を元気に自転車を跳ばす後姿が角を曲がるまで見詰めていた。不甲斐ない父親の代役をするという幸治があまりにも不憫で目頭が熱くなったが唇をかみ締めて涙を押さえた。

「幸治はもう出掛けたのか」

ブルッとあまりの寒さに肩を震わせながら背中を丸めて家に入って来た順子にガラス戸越しに舅が声を掛けて来た。

「ええ、今出掛けました」

「馬鹿な父親を持ったばかりに正月だと言うのに可愛そうにのう。お年玉は何とかするから順子ももう少し休め」

床の中から舅は順子や幸治の気持ちを慮って気遣いを見せた。

「はい、そうさせてもらいます」

順子は二階へ上がり再び布団に潜った。が、いろんな事が思い出されて寝付かれなかった。もう先が長くはないであろう姑の事やお年玉を持ち逃げした幸一。わが亭主ながら情けなく無性に腹が立つ。家族と共にお正月も過ごせない夫が哀れとも思えない。好き勝手に生きればいいんだ。もう二度と夫とは呼びたくない。けがわらしいだけだ。それにしても寝起きで頭がぼうっとしていたにしても幸治が抱きついてきた時わが息子とは思えぬ異様な気配を感じたのは何故なんだろう。幸治はなんとも思わず寝ぼけて誰かと間違って抱きついたのだろうか。長い間夫との性交渉を持ってない要求不満から身体だけが敏感に感じ、昨夜の事もあり自分勝手な勘違いから幸一に処女を奪われた時の事が閃き、突然拒否反応を起こしたのだろうか。自分ながら自分の身体がけがわらしいと思うと同時に久しぶりに若い男に力強く抱かれてほんの一瞬ではあったが夫との新婚時代を思い出してあんなに夫を毛嫌いしていながら身体が火照ってきて自らの下半身に手が伸びようとした。

「あっ、駄目!」

順子は正気を取り戻した。凍りつくような冷気の中を元旦の特殊ページが増刷され重たい朝刊を荷台に積み必死に自転車を漕いでいるであろう幸治の姿が目に浮かび、はしたない自分を責めると同時に三十歳の女ざかりを持て余した

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(六)

 六

恐らく渡辺と二人の所を舅に見られたのだろう。咄嗟の事とは言え何故人違いだと偽ったのか。舅をだますつもりは端からなかった。幸一が居なくなって誰かに頼りたい女の弱さがひょいと頭を擡げ、あまりにも幸一と異なる渡辺の優しさと男らしさに何時しか順子の胸の中に渡辺に対する疚しい思いが蟠っていたのを隠す為だったのか。子供の前で突然男と言われて動転したのは確かだが要らぬ心配を掛けまいと思いやりから出た咄嗟の言葉だったが返って誤解を招く結果になった。舅はどんな目で順子を見ているのだろうか。幸一の居ない家庭を守るために必死で働き少しでも安定した暮らしをと願うのがいけないのだろうか。山奥育ちで純真すぎた順子は男性と話をするだけで後ろ暗い気がして、自分の軽率な行為を責めた。

幸治にまで変な目で見られたのは順子には大きな誤算だった。子供には何処までも母親であって女の部分を見せてはいけない。特に思春期を迎えた幸治の前では余程注意を使わなければ純真無垢な心を歪みかねない。

正直に会社の親切なおじさんがが親切に買ってくれたと云えば良かったと後悔の念に駆られた。多感な幸治の事まで考える余裕がなかった。舅はだませても一番頼りにしなければならない幸治には嘘は付けない。これ以上問題を拗らすと日頃のくそ真面目な生活態度から幸治は何をしでかすか分からない怖さを秘めているように思われた。事情を話して納得させるしか方法がない。何処まで信用してくれるか分からないが渡辺には暫く会わないようにしようと決心した。

年の暮れは何かと気忙しく順子はそれを言い訳にして渡辺の誘いを断り続けた。渡辺は順子の態度が急変したのをその口実から察した。女というものは真に扱いにくいものだとつくづく感じさせられた。あれほど親身になって相談に乗り、出来る限りの世話をしてやったにも関わらずあの冷たい態度は何だ。許しがたいと腹を立てながらも強く言い出せない惚れた弱みがあった。クリスマスケーキから派生した順子の家の事情を知らない渡辺は順子がそんな渡辺の腹のうちを計算してわざと素っ気なくしているのだろうかと疑った。そうだとするならばここは性急に事を運ばず慎重にやらなければ反って揚げ足を取られかねない。会社での地位はもちろん家庭崩壊を招く恐れがある。若い頃のように怖さ知らずの情熱だけで突っ走る勇気はない。渡辺は一歩下がった。

暮れも押し迫った大晦日の日順子は病院へ姑の見舞いに行った。

「お母さん具合はどう?」

以前より大分痩せて細い骨皮だけの姑の手を取りながら優しく聞いた。

「ありがとう。よう来てくれたね。子供たちは……」

姑は舅から渡辺の事を聞いているのか探るような眼で子供の姿が見えないのは男と落ち合う約束でもしているのかと訝った。

「帰りにね、おせち料理の材料を買って帰るの。大晦日だからスーパー混んでるでしょ。邪魔だから留守番してもらってるの」

「そう、そうだったの。そうよね。気忙しいのに子供が一緒だと時間が掛かってしようがないわね」

順子が一人で来たのは別れ話を持ち出すのでないかとひやひやしていたが、姑の取り越し苦労ようだ。姑は順子に限って男を作るようなことは無かろうと一安心した。

「お母さんが居ないお正月は寂しいわ。早く良くなってね」

「ありがとう。子供たちを頼むわね」

気掛かりではあったが舅や家を出たきりの幸一の面倒まで今の順子に頼むのは酷であった。せめて子供たちの世話を頼むのが精一杯だった。

順子が子供たちを置いて男と駆け落ちでもしたら家庭は崩壊する。そんな無責任な冷たい順子ではないと信じつつも男に上手いこと唆されたら世間知らずの順子のことだからのこのこと着いていくかも知れない。将来のある三人の孫の行く末が案じられて精神的にも追い詰められ姑の病は悪くなる一方だった。何としてでも順子に自重を求めるしかなかった。

「順子さん私はもう駄目みたい。こうして床についてるとつくづく思うの。私の生涯ってなんだったんだろうとね。何にもいいことがなかったように思うの。唯ひとつ嬉しかったのは順子さんが嫁に来てくれたことよ。こんなにやさしい娘が嫁にきてくれるなんてあの時は本当に夢のようだったわ。これからもどんなことがあっても子供たちだけは守ってやってねえ。約束してね。あなた一人がたよりなの……」

姑は順子の手を求め力の無い両手で握り返し拝むように涙声で何度も三人の孫たちの事を頼んだ。

「お母さん何を気弱なことを云っているんですか。早く良くなってくれないと私一人では支えきれないわ」

「本当に済まないわね。馬鹿な息子を持って今頃何処でどうしているんでしょう。順子さんには苦労ばかり掛けて……」

「おかあさん……」

二人は手を取り合って泣き崩れた。

順子は見る影もなくやつれた姑に付き添って看病してやりたかったが正月の準備があって後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。本当はいろんな愚痴やこれからの生活を相談したかったがそれも出来なかった。

大晦日のスーパーは正月用の買い物でごった返していた。唯でさえ混んでいるのに子供連れや濡れ落ち葉の主人を伴った夫婦連れなどででレジは長い行列で混雑していた。順子は年越し蕎麦と雑煮のためのお餅や田作りや数の子などあまり手を加えないで食べられるものを買った。それでも三ケ日を過ごさなければならないので日頃よりは余計に食料品を買い込んだ。又けちな舅に小言を云われるかもしれない。舅は地代や公共料金は支払ってくれたが日常の生活費は順子のパート代で賄ってきた。いつもギリギリでもう少し舅に協力して貰いたかった。正月だけでも子供のお年玉ぐらいはお願いしなければどうにもやっていけそうにない。軽くなった財布の中身を確かめながらため息をついた。急に今別れてきた姑や出て行ったきり音沙汰のない幸一の顔が浮かび涙が一滴流れ出た。師走の風は厳しく順子の頬を流れる涙を吹き流した。

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(五)

 

  五

中村が帰って小一時間たっても順子は帰って来なかった。

「お母さん遅いなあ」

「何してんだろう」

葉子と真二は辺りが薄暗くなっても帰らない順子を待ち侘びていた。

その頃順子は常日頃てきぱきと優しく指導してくれる上司の渡辺と喫茶店で深刻な表情で顔を突き合わせていた。予てほんわかとした行為を抱いていた渡辺の温情に縋り付く以外に窮状を打破する方策が見当たらなかった。何時までも幸治を新聞配達をさせることも許されない。

「そうか、ご主人が家出したのか……大変だろうね。でも正社員には簡単にはなれないよ」

「そうですか。子供が三人も居るものですからパートでは生活出来ないのです」

「ええ、三人も……」

渡辺は真剣な眼差しで見つめていたがキュートな順子に子供が三人も居ると聞いて一瞬信じられないと言った顔つきになり言葉が詰まった。

「子供が病気になっても病院にも連れて行けないんです。姑も癌で入院しているのですが治療費も払えなくて……」

順子は追い討ちを掛けるように現状を説明した。

「お姑さんが癌で入院してるの。国民保険は?」

「国民保険では治療費だけです。入院費用や給食費が……」

「そんなに困っているのか……」

中高年の小母さんばかりのパートの中で独り者のように見える順子に密かに行為を抱いていた渡辺は思い掛けなく声を掛けられうきうきした気分で喫茶店にやってきたが、こんな深刻な悩み事を相談されるとは思っても見なかった。

「はい。今のままでは一家心中するしか手がないんです」

「おい、物騒なこと云うなよ」

「何とか正社員になれませんか」

「人事の問題だからね。私では何ともならないですよ。ご主人が家出してるんでは離婚も出来ないんだね。母子家庭になればいろんな優遇措置があるんだろうが……」

渡辺は順子の顔色から反応を窺っていた。

「順子は病気の義母を置いて離婚は出来ないのです」

「そうか、順子さんは優しいのですね」

「優しいんじゃないんです。いろいろ義理があって踏み切れないんです。特に義母には山奥育ちの私を優しく指導してくれたんです」

「順子さんは優しいだけでなく義理堅いんですね」

「そんな……買い被りですわ」

順子は純情そうに頬を紅潮させた。

「そうか離婚も出来ないのか……正社員の件一応上の者と相談して見るか」

「よろしくお願いします」

「うん……あまり当てにしないでくれよ」

渡辺は一応引き受けたものの何か重い気持ちになった。

「気分転換でパッと何処かで一杯やろうか」

「済みません。子供たちが待っているものですから……」

順子は申し訳なせそうに渡辺の誘いを断った。

「いやいいんだ。じゃあ今日のところはこれで……」

渡辺は伝票を持って立ち上がった。

十二月の風は冷たく落葉したプラタナスの葉っぱを振り落としていた。

「寒いね。風引かないように」

「ええ、大丈夫ですわ。本当に時間を取らせて済みませんでした。さよなら」

順子は自転車に跨って走り出した。渡辺は順子を見送りながらブルッと身体を震わせ首を竦めるようにしてオーバーの襟を立て駅の方へ歩き出した。何処かで一杯引っ掛けて帰るつもりらしい。

順子は近くのスーパーで買い物をして急いで家に帰った。

「何してたんだ。遅かったなあ」

舅は既に帰って来ていて不機嫌を顔に現し神経質にタバコを吹かせていた。

「済みません。ちょっと用事があったものですから」

順子はそそくさと台所に立ち夕餉の支度に掛かった。

順子は渡辺からの返答を待ち侘びていた。十日過ぎても渡辺からの返答はなかった。やはりパートから正社員への道は難しいのだろう。渡辺に対してすまない事をした。あんな無謀な事頼まなければよかったと言う負い目が順子を攻め立て渡辺の顔をまともに見るのが辛くなり、五時が来ると逃げるようにしてそそくさと会社を後にした。

渡辺も順子の頼みを無視しているわけではなかった。人事の者にそれとなく打診して見たがいくら若くてもパートからの正社員への登用は今のところ無理な事であった。顔が丸く小さく纏まっているせいか、どちらかと言えば小柄に見える愛くるしい順子の顔を思い浮かべながら困窮している順子に純粋に何か手助けはないものかと思案していた。

順子が渡辺に呼び止められたのは十二月も押し迫ったクリスマスイブの昼だった。

「今日退社したらこの前の喫茶店で待っていてくれるか」

「はい解りました。どうも済みません」

「じゃ、後でなあ」

渡辺は他の人に見られるのが不味いのか、それともいい報告ではないのかそれだけ告げて慌てて離れて行った。

喫茶店の窓際に席を取った順子は見るともなしにガラス窓から外を眺めていた。何処の店にも大小の差はあれクリスマスの飾りつけがされ赤や青の輝きが黄昏の町を華やかにしていた。店内では静かにジングルベルの音楽が流されて沈みがちな順子の気分を和らげてくれた。最もクリスマスを祝うことなど順子には関係なかった。今日がクリスマスイブだと言うことも席について暫くして、<あ、そうか>と思い出し少女のように急に顔が赤くなっていくのが自分でも解った。

「やあ、待たせたね」

息せき切って渡辺がやって来た。

ダーク‧グレーの背広にネクタイ姿の渡辺は工場で見る制服姿の渡辺と違って十才位くらい若く見え順子の亭主の幸一と比べてもどちらが年下なのか判別出来ないほどであった。イルミネーションと小さなロウソクの光に照らされて二人は恋人同士のように見えた。順子は清純な乙女のように緊張していた。先日会った時は上司とパートの関係だったが今日はクリスマスイブと言う事もあってかイルミネーションが輝く幻想の世界に引き込まれたのか渡辺を異性として意識させられた。

「いえ……」

後は言葉にならなかった。

渡辺はゆっくりと腰掛けて辺りを見渡しながら

「綺麗だね」

「いや、恥ずかしいわ。そんな……」

順子は俯いたまま益々固くなっていた。

「え、いや失礼。順子さんも綺麗だがイルミネーションがね素敵だね」

「まあ私早とちりして…嫌だわ」

「そんな事ないですよ。順子さんは本当に純情だなあ。とても三人の子供が居るなんて信じられないよ」

「もう堪忍してください。恥ずかしいわ」

「ごめんごめん」

そこへウェイトレスが注文を取りに来た。

「いらっしゃいませ。ご注文は」

「コーヒー、アメリカンで。君は」

「同じもので」

「かしこまりました。暫くお待ちください」

「それで先日の話だがね……」

ウェイトレスが立ち去った後渡辺は言いにくそうに切り出した。

「実は現状では無理なんだ。期待に添えなくてごめんよ」

「いいえ、私の方こそ無理なお願いをして済みませんでした」

順子は初めから虫のいい願い事だとは分かっていた。日頃から特別に優しくしてくれる渡辺に頼りたい下心が順子の胸の奥底に潜んでいたのかも知れない。恥を忍んででも渡辺に近付きたかったおぞましさに順子は自分でも驚き、何時の間にこんな嫌らしい女になったのか気が付かなかった。

女はやはり頼れる男が居なければ生きていけないのだろうか。順子はしっかり自立しなければと自分を戒めるのだが何処かで誰かに頼りたい女の性が見え隠れしていた。

「いや、それでね新年度からチーフをやってもらいたいんだ」

「え、私が」

「あゝ、パートさん達のチーフ役になればそのうちに正社員になれるかも知れないんだ。どうかね、やって見る」

「ありがたい話ですけど私に務まるかしら。自信がないわ」

順子は若さと美貌を鼻に掛けて同僚のおばさんたちを差し置いてチーフになるのには抵抗があった。だからといって三人の子供たちの将来を考えると綺麗事ばかりは云っておられない。犬畜生と罵られても卑劣な手段ではあってもここは渡辺の好意に甘えるより道はなかった。

「大丈夫ですよ。私が補佐するから」

順子は渡辺の気遣いが嬉しくて涙が流れそうになった。

「ありがとうございます」

「じゃ何処かで祝宴でも挙げるか」

「え、今からですか」

「都合が悪いの」

この期に及んで尻込みする順子の意図が分からないわけではないが、お互いに大人なんだから割り切った付き合いを期待していた。

「家の者に何にも云って来てないから心配するといけないから」

そう云われて見ると男の都合だけで順子の立場を考えないあまりにも性急な自分を恥じた。無理押しは順子を遠ざける結果を招きかねない。

「そうだったね。子供さんが待っていたんだね。ケーキでも買っていくか」

「済みません。勝手なことばかり云って」

「気にすることはないよ。日を改めてね」

雪こそ降っていないが今にも霙でも落ちて来そうなクリスマス‧イブの夕方、世間の人は楽しそうに帰路に着いていたが舅の国次は病院を後にして我が家近くの交差点に差し掛かっていた。信号が赤になり一時停車した。ヘルメット越しに前を見ると道路を隔てた角の洋菓子店の前に嫁の順子が浮かぬ顔で立っている。クリスマスケーキを買おうか迷っているのだろうか。国次は声を掛けようと単車を脇に寄せヘルメットを取ろうとしたが洋菓子店の中から恰幅の良いサラリーマン風の男が出て来てケーキらしい物を順子に渡そうとしている。国次は見てはいけないものを見たような気がして急いでその場を立ち去った。我が家に着いてからも国次は何か苛立たしい気分に襲われていた。

「誰なんだろう。クリスマスケーキを呉れるような間柄の男。どういう関係なんだろう。何時の間にそんな男が出来たんだろう」

山奥育ちの純真な娘と高を括っていたが女は化けるのが早いのに驚くよりも無性に腹が立って来た。

「只今。遅くなって済みません」

そんな事と知らず順子は何食わぬ顔で帰って来た。

「クリスマス‧ケーキー買って来たから食べててその間にご飯作るからね」

順子は四等分に切って皆の前に並べた。

「ウヮーイ、ケーキだ。美味しそう」

葉子と真二は嬉しそうにケーキにかぶり付いた。

「お母さんのは?」

幸治は長男らしく順子に気を使った。

「母さんはいいの。お腹空いてるでしょう。早く食べて」

「本当にいいの。お爺ちゃんも食べよう」

「何処の馬の骨とも分からない奴の呉れたものなんか食べられるか」

国次は子供が機嫌よくケーキを食べている前で足蹴ざまに順子を罵った。

「え、」

順子は一瞬声を呑んだ。何故ばれたのだろう。

「お爺ちゃん何云ってるの。早よ食べよ」

事情を知らない幸治は祖父が変になったのかと心配して取り成した。

「そうよ、美味しいでしょう。お爺ちゃんもどうぞ」

順子はその場を誤魔化すように国次の前にケーキを乗せたプラスチックのお皿を差し出した。

「こんなもの食えるか。あの男は誰だ!」

怒鳴るなり国次は皿を跳ね上げた。ケーキはテーブルの上でぺしゃんこになった。

「お爺ちゃん!何するねん。あの男って何のことね」

幸治は祖父の怒りようが徒事ではないと察知し順子を擁護しながらも順子の様子を窺った。

「何でもないのよ。お爺ちゃんが誰かと見間違っているのよ。お爺ちゃん食べないの。勿体無いから私が食べるわよ」

こんな事態になることを順子は懸念していた。最初からクリスマスケーキを買う余裕などなかった。渡辺が子供たちにと好意で買ってくれたものを無下に断ることも出来ず、辞退しながらも偶には子供たちにケーキを食べさせてやりたかった。

貰ったにしろ買ったにしても国次に怒られることは覚悟していた。

「美味しいねえ」

順子は潰れたケーキの綺麗なところを頬張りながら子供たちを見方にして図太くその場を誤魔化そうとした。

「ねえ、あの男って誰?」

思春期を迎えようとしていた幸治は男と女の話に敏感になっていた。順子は母親とはいえ十八才しか違わない女ざかり。世間にはそれぐらいの歳の差の夫婦はいくらでもいる。増してこの年頃の男の子は年上の成熟した女性に興味を持つ。男と聞いて急に若い母親を異性としての興味で見るようになった

「お爺ちゃんの見間違いだと云っているでしょう。子供は大人の話に入ってはあかんの」

納得はしなかったが幸治は自分の心の奥を覗かれるような気がして黙った。国次も子供たちの前で問い詰めるのは不味いと悟ったのか横を向いてタバコに火を点けた。

順子は床に着いてからも舅の言動が気になって寝付かれなかった。

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(四)

 

  四

 順子は熟した白い裸身に真二を抱き寄せ銭湯の広い湯船に浸かりながら行く先々の事を案じていた。いつ帰るか分からぬ夫、病に臥す姑、年老いた舅、幼い三人の子供たち。か弱い女の痩身に背負わされて立ち上がることも出来ない。思案を重ねても道は開けて来ない。頼りに出来ない夫と離婚して子供たちを育てるのも容易ではないが増して年老いた義理の両親を見捨てることも出来ない。このまま葉子を抱きかかえて湯船の底に沈みたい衝動に駆られた。一瞬逆上せて頭がふらつき落ちていく気分に囚われたがはっとして我に返った。

「しっかりしなければ。何としてでも子供だけは道連れに出来ない」

銭湯も倹約して小さいが舅の内風呂で我慢しなければなるまい。せめて今日だけはのんびりとお湯に浸かろう。すべては仕切り直しだ。順子は湯船から立ち上がり洗い場の椅子に腰掛け葉子の頭に勢いよくシャワーをかけた。

日曜日順子は子供たちを伴って病院へ行った。姑は鼻や腕に管を通されタコ足配線のパソコンのようであった。起き上がれない不自由な姿勢で子供たちを歓迎した。

「よく来てくれたね。学校は?」

「お婆ちゃん何云ってるのよ。今日は日曜日だよ」

幸治は姑の鼻から出てる管に少し驚きながら云った。

「あ、そうかい。寝てばかりいるとね何曜日か分からなくなったよ。お父さんは仕事かい」

「お父さんは何処かへ行った」

女の子はおしゃべりだ。葉子はなんでもしゃべる。

「何処かへって?」

「ええ、ちょっと仕事のことで……」

順子は幸一が家出をしたとは云えなかった。ましてや幸一と離婚したいとは切り出せなかった。

「仕事……あの幸一が仕事で……順子さん何か隠しているんでしょう」

姑はこ聡く順子の嘘を見破っていた。怠け者の幸一が仕事で出掛ける訳がない。パチンコだったら隠し事の出来ない順子が云わない筈がない。

「………いえ、べつに」

順子は強引に犯されたこと、ぐうたらな幸一とは結婚したくなかった事等すべてを打ち明けたかったが、世間知らずの順子の面倒を看てくれた病気の姑に吐露できる訳がなかった。

「お父さんは帰ってこないの」

葉子が無邪気に口を滑らした。

「え、お父さんはおうちに居ないの」

姑は驚いて起き上がろうとした。順子は慌てて葉子の口を塞いで幸治に葉子と真二を外に連れて行くように指図した。

「順子さん一体何があったの。隠さないで云って頂戴」

「お母さんごめんなさい。私が悪いの。お父さんと幸一さんが口論して幸治が口を出したの。そうしたら幸一さんが幸治を殴ったの。それでお父さんが怒って幸一さんは出て行ったの。私が止めればよかったのに……でも今日ぐらい帰ってくると思うわ」

順子は無理に笑顔をつくって希望を持たせた。

「そう、そんな事があったの……やっぱり私の育て方が悪かったのね。遅くに産まれた一人息子だったでしょう。好き勝手を許して来て急に厳しく言っても耐える力がないのね。順子さんには苦労ばかりかけるけど幸一を見放さないで。あなたに捨てられたら幸一は生きて行けないの。お願い幸一を助けてやって」

病床にありながら一人息子の行く末を案じる姑の胸の内を思うと順子はいたたまれない気分に襲われた。不肖な息子ゆえになおさら不憫が募るのだろう。四十歳になろうというのに少しも家庭を顧みない幸一に順子は踏ん切りをつけようと何度思ったか知れない。その度に病身の姑のことを思うと鬼になれない。ぐずぐずしているうちに三人も子供が生まれ幸一に対しても多少の情が湧いて決心が鈍るのだった。今又姑に泣きつかれ、悩み考えあぐねた結論もぐらつき始めていた。姑の顔を見るまでははっきりと幸一と別れたいと切り出すつもりだった。母子家庭になれば身体は苦しいけどいくつかの悩みが解消し明日への希望が湧いて来る。今のままでは何の楽しみもなく苦しみばかりだ。年老いた老夫婦とぐうたらな夫を見捨てて人の道を踏み外し自分のために生きる。順子にはそれが出来ない。これが自分に背負わされた宿命なのかも知れない。順子は無理やり納得せざるを得なかった。

「お母さん安心して離婚はしないわ。早く元気になって」

それだけ云うのが精一杯だった。

「ありがとう。順子さん本当に済まないね」

姑は順子の手をか弱い力で握り締めながら何度も礼を云った。

夫と姑の二人の働き手を失った家計は火の車になった。アパートの家賃も払えず順子は舅の家へ舞い戻り同居を強いられた。給食費も払えず小学校六年生の幸治は朝刊の配達をすることになった。小学生にバイトをさせてはいけないことは分かっていたが、法律とか世間体など気にしている場合でななかった。

「幸ちゃん、済まないわね。気をつけて行くのよ」

順子はマフラーを巻いてやりながら小さい身体を抱きしめてやりたい衝動に囚われた。が、今は夫より長男の幸治に頼るしか方策が見当たらなく不憫だと思う感情を抑えた。

「あゝ、行って来るよ」

生きていくために幸治は寒い朝も五時に起きて文句も云わず元気に出掛けて行った。

幸治は父親の幸一を反面教師にしたのか真面目すぎるほど健気ではあったが、一面どこか融通の利かない一途なところがあり何か怖さを秘めていた。

舅が看護に出掛けた夕方だった。順子も未だパートから帰っておらず兄弟三人でテレビの漫画を観ながら留守番をしていた。

「お兄ちゃんお腹空いた」

学校から帰ってもお八つが用意してくれてるわけでもない育ち盛りの葉子は夕食まで我慢出来ない。

「俺もお腹空いた」

幼児言葉が抜け切らない真二も幸一の袖を引っ張りながら空腹を訴えた。

「漫画が終わるまで待っとけ」

兄の命令は絶対だ。暫くは二人とも大人しくテレビの漫画を観ていたが襲い掛かってくる腹の虫に耐えられなくなった。

「ねえ、未だ…」

お腹を抱えて葉子は又くずり出した。

「しょうのない奴やなあ」

幸治は渋々立ち上がり戸棚や小さな冷蔵庫を探して見たがお八つらしいものは見当たらなかった。チキンラーメンがひとつだけ棚の奥の方にあった。

「ラーメンでもええか」

「うん、ええよ!」

葉子と真二は口を揃えて答え、走りよって来た。

「直ぐにこさえるから向こうで待っとけ」

幸治は鍋に水を入れガス栓を捻って火を点けインスタントラーメンを放り込んだ。

「一つしかないから分けるんだぞ」

「うん、いいよ」

葉子は姉らしく物分りのいいところを見せた。

「一つしかないのか……」

真二は不満げだ。

「ほら出来たぞ」

卵もねぎも入ってない半分づつのラーメンだったが、それでも二人は喜んで食べかけた。

「兄ちゃんは?」

葉子は女の子らしく気を使った。

「兄ちゃんはいいんだよ」

同じように幸治もお腹が空いていたが兄らしく我慢してテレビを観て腹の虫を抑えた。

「ごめん、誰か居るかい」

玄関をがらりと開けて大家の中村が入ってきた。

「どちらさまでございますか」

幸治が怪訝そうに中村を睨みながら馬鹿丁寧に応対した。

「大家の中村だが……誰も居ないのかい?」

中村は部屋の中を覗き込みながら、隠れては居ないかと様子を伺った。

「誰も居ません。一体どのようなご用件でしょうか」

「ああ……土地代が三ヶ月も溜まっているんだがね……」

中村はねちっこく尚も疑っているものの言い方だ。

「そうですか。ご用件は承りました。只今留守に致しておりますので又のお出掛けをお願いいたします」

「君幾つだ。馬鹿丁寧なその言い草は何だ。もっと子供らしく云えんのか」

「はい、これが私のキャラクターです」

「キャラクター……大人を馬鹿にしたような言い草は止めとけ。向こうの二人ラーメンは美味しいかい」

「うん、美味しいよ。小父さんも欲しいのかい。もう無いよ」

真二は最後の汁を啜って口をぬぐった。

「そうか、そんなものが美味しいか。それが晩飯か」

「それがどうかしましたか。あなたには関係のない事でしょう」

「お爺ちゃんは何処へ行った」

「祖父は病院です」

「病院?どこか悪いのか」

「お祖母ちゃんが入院してるの」

葉子が後ろから口を出した。

「何お祖母ちゃんが入院。癌が再発したのかそりゃ大変だ」

「癌ではありません」

「親父はどうした」

「お父は帰って来ないの」

真二が又いらぬことを云った。

「帰って来ない。又パチンコか。親が病気だと言うのに暢気なもんだ」

「あなたに心配していただくことではありません。早くお帰りください」

幸治は毅然と言い放った。

「分かったよ。又来るからね。お爺によく言っとくれ」

上がり框に腰掛けていた中村はやっと重い腰を上げた。

「帰れ、帰れ!」

葉子と真二が囃し立てた。

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(三)

 

 三

順子と幸一は近くでアパートを借り、一応新婚所帯を持った。昼間は二人とも親の縫製の仕事を手伝い平穏な日常が続いた。夜は幸一の激しい要求に順子は耐えた。臨月近くになっても後ろから攻められた。幸一のパチンコ遊びがぶり返したのは長男の幸治が産まれた直後からだ。産後の順子を相手にすることも出来ず、激しい幸治の夜鳴きに苛立ちパチンコで鬱憤を晴らすようになった。

女は強し、母は更に強し。山奥で育ち世間知らずの順子だったが何時の間にか健気にも十八歳で夫の横暴にも耐え一人の母親になっていた。背中に幸治を負い洗濯炊事をし帰りの遅い亭主を待った。

「もう直ぐ父さん帰って来るからね」

夕ご飯も食べず自分に言い聞かせるように独り言のように呟きながら、ぐずる幸治を背中に負ぶって表通りに出て幸治をあやしながら街灯に吸い寄せられた一匹の蛾を見つめていた。蛾はもがき苦しんで苦しんでいるようでもあり、羽をバタバタ震わせて喜んでいるようでもあった。それは順子自身を見ているようでもあったが、それでも順子にとっては生涯で最も幸せな時だったのかも知れない。可愛い子供が居て亭主が居る。それだけで満足だった。

歯車が狂いだしたのは二人目の葉子が生まれた頃だ。中国から安い衣料品がわんさかと入って来るようになりワイシャツの工賃も下がり仕事の量もめっきり減った。家族は手持ち無沙汰になり幸一は苛立ち始め舅と諍いが絶えなくなった。

「こんなあほらしいことやってられるか!」

「そんならどっかへ勤めたらどうだ」

「おお、出て行ってやるわ」

幸一は中学しか出ておらず働くと言っても肉体労働しかなかった。元々ぐうたらな幸一が同じ職場で長続きするわけがなかった。勤務状態や態度が悪く上司とのいざこざが絶えず折り合いが悪くなってプラスチック生成工場、紙加工、金網工場など半年かそこらで職場を転々と替えていった。そうこうしているうちに三人目の真二が生まれた。

幸一の働きが悪く順子の家計は火の車だった。已む無く順子は乳飲み子を姑に預け近くの電子部品の組立工場にパートとして働きに出るようになった。絶えまなくコンベアで送られてくる部品を半田付けする作業だ。六時ごろから起きて夫と幸治を職場と学校に行かせ葉子と真二を姑の所に連れて行かなければならない。朝食の準備をして夫の弁当を作り夫を起こしに掛かる。

「あんた七時よ、早く起きて。会社に遅れるわよ」

「うーん……会社。頭が痛いんだ、今日は休むよ」

「頭が痛い?」

順子は幸一の額に手をやった。

「熱無いじゃない。又仮病使って、駄目よ。早く起きて!」

「本当なんだよ。ああ、頭が痛い」

幸一は再び布団を引き寄せ潜り込むんだ。全く父親としての自覚がない。

「ほんまにしょうのない人ね」

順子は何時までも夫に構っていられない。子供たちを起こして食事をさせなければいけない。

「幸治早く起きて歯磨きしなさい」

順子はぐずる葉子に洋服を着せながら幸治を急き立てた。

「葉子も顔を洗って来るのよ」

「おしっこ」

「え、おしっこ。早よトイレへ行って」

順子は葉子をトイレへ連れて行こうとする。

「僕が先やあ」

幸治が葉子を跳ね除けるようにしてトイレに入る。

「いやーん、出てしもうた」

待たされた葉子は足を伝って床に流れる小水に気持ち悪そうに泣き出した。

「え、え、出たって!何で我慢せんのよ。幸治も幸治やでなんで先に行くの」

「しょうがないや。出たかったんだもん」

「せっかく着替えたのに。どうするんな」

順子は濡れたパンツの乾いた部分で葉子の足を拭いてついでに床まで拭いた。

「お父さん起きたんな。おくれるよ」

順子は葉子の着替えをやり直しながら奥で頭まで潜っている夫に叫んだ。その傍らで寝ていた真二が騒々しさで目を覚まし愚図つき出した。

「ハイハイおっぱいよ。みんなも早くご飯食べて出掛けるのよ」

白い乳房を真二に吸わせながら子供たちを急かせた。毎朝がまるで戦場だ。

順子は昼の休み時間にも自転車で急いで姑の所へ帰り真二にお乳を飲ませながら昼食を摂り慌てて又工場に戻り夕方まで働いた。幸一の働きが悪いために順子がパートに出たのだが、それをよいことに幸一は会社をズル休みする日が多くなった。

姑は気を使って順子に米や野菜を持って帰らせたり子供たちに小遣いをやったりした。それでも皆が元気なうちは何とか生活は成り立っていた。

最も恐れていた癌の再発を気力だけで凌いで来た姑だったが加齢には勝てなかった。もう大丈夫だと安心していた十年後になって姑は再び倒れた。

身内に一人でも病人が出ると生活のリズムが狂いだし心が荒廃して行く。

たちまち食事が問題になった。縫製と看護に忙しい舅に食事の準備まで頼むことは出来ない。やはり女である順子が何とかしなければならなかった。朝食はパン食にするにしても昼食や夕食をどうしたものか順子は悩んだ。小学生の幸治と葉子は給食があるから問題はないにしても舅のお昼をどうするかだ。順子は朝早く起きて夫と舅それに自分と真二の四つの弁当を作った。夜は舅の家で皆が一緒に食事をすることにした。本当は舅の家に同居すればいいのだが一、二階共二間づつしかない仕事場兼用の長屋では無理だった。

反りの合わない幸一と舅の間をとりなして来た姑が入院してからはいざこざが絶えなくなった。退社後飲み屋やパチンコ屋に立ち寄って帰りの遅い幸一に舅は我慢がならなかった。

「どうして毎晩遅いんだ。母さんが病気だというのに何をやってんだ!」

「母さんが病気したのは俺のせいじゃないよ。親父と一緒に飯食いたくないから寄り道するんだ。文句ばっかり云やがって!」

「何だと。お前が心配ばかりかけるから母さんが病気になったんだ」

「心配してくれと頼んだか。俺の知ったことか!勝手に病気になったんだろう」

「何、もういっぺん行ってみろ!勝手になったとはどういうことだ」

順子はおろおろするばかりだ。傍から小学五年の幸治が口を挟んだ。

「おばあちゃんが可哀想だよ。パチンコばっかりするお父さんなんか嫌いだよ」

「何だと。生意気云やがって!」

幸一の手が幸治の頬を叩いた。

「こんな父さんなんかおらん方がええよ!」

幸治は泣き叫びながら二階へ上がって行った。

「小さい子供を殴るなんて許さない。出て行け!」

舅は真っ赤になって怒った。