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順子絶唱第三章(一)

第3章

  一

例年になく七月の中旬から一斉に鳴きだした蝉も朝のうちだけで昼間は静かで何をしているのか何処に居るのかさえ分からなかった。木々を渡る風もなく炎天下に焼き付いたアスファルトの道路は溶け出す箇所もあった。そんなけだるい昼過ぎ、順子を訪ねて若いイケ面の男が会社へやって来た。男は上背百八十センチ近くあるのではないかと思われるようなすらりとした体格で、鼻は高く涼しい眼の奥にきらきらと抜け目のない野心のようなものが輝いていた。就業中の面会は余程の事でない限り許されていなかった順子は早退の手続きをして、会議室で待っていた男を促し近くの喫茶店へ誘い出した。

「中山順子です」

「中山順子さんですよね……」

男は順子があまりにも美しく可憐で若いのに信じられないといった表情で念を押した。

「私、この度お父さんの中山国次さんの弁護を担当することになりました国選弁護人の田原本健介です。どうぞよろしく」

田原本健介は身体に似合わず透き通った声で初対面の挨拶をしながら、華奢な手で名刺を出した。

「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」

順子は名刺を拝見しながら田原本を見返した。国選弁護士と言えば覇気のないロングヘアーのだらしない男かよぼよぼの爺さんかと想像していただけに、目の前に居るグレーのスーツにエンジ色のネクタイをキリリと締めた若い、今風に言えばイケ面の田原本健介が舅の弁護人とはとても考えにくかった。順子は警戒心と共に心臓を鷲づかみにされたようなショックを受け一目見ただけで胸がキュンとなった。前方不注意と言われれば不注意だったかもしれないが不法駐車している車の陰から突然飛び出してきた真二を避けることが出来ずやむなく跳ね飛ばし、呆然として立ちすくむ運転手を狙った卑劣な行為をしでかした舅の弁護を引き受ける田原本の魂胆が順子には理解できなかった。

「昨日大阪拘置所で国次さんと接見して来たのですが、全くお話が出来ませんでした。こちらの云ってることが分かっているのかそれさえも分からないような始末なんです。調書も拝見しましたが、何にもしゃべっておりません。黙秘権かと思っていたのですがそうではないようです。あのような状態は事件を起こす前からなんでしょね。そうなんでしょ!」

田原本は語気を荒めて順子に迫った。

「ええ、そうなんですけど……」

順子は田原本の気迫に押されて事の真意が理解できないまま相槌を打った。

「奥さん、心配要りませんよ。舅さんのことは任してください。それにしましてもご主人は?」

「主人は春先、姑共々亡くなりました」

「ええっ、亡くなられたって!事故ですか?」

「いいえ、病気です」

「そうですか。すると奥様は未亡人なんですね」

「ええ、まあ……」

「じゃあ、お一人なんですか……いやぁそうなんですか。ハッハッハ」

田原本はひとりで合点し嬉しそうに笑った。

人が二人も亡くなったというのに快活に笑うこの礼儀知らずの田原本という男はどういう神経の持ち主なんだろう。いくら国選弁護士でも無礼千万な奴だと順子はコーヒーを飲みながらカップ越しに田原本をやさしく睨みつけた。

「いや、これは失礼しました。こんなお美しい方に逢ったのは初めてでして、つい嬉しくなって真に申し訳ありません」

頭を掻きながらお世辞を云って照れている田原本の甘言に順子も悪い気はせず薄笑いを浮かべた。

「そうですかご主人が亡くなられたのでは何かと大変ですね。それに今回はお子様まで事故に遭われたんですね。本当になんと云ってお慰め申し上げたらいいのか……」

「ありがとうございます。全て私が悪いのです……」

順子は真二の最後の顔を思い出し、突然涙が溢れ出し涙声になった。

「いやあ、辛いことを思い出させてごめんなさい。事故の損害賠償の示談はどうなりました?」

「損害賠償って?」

「お子さんが亡くなったんですから損害賠償の申請をしなければなりません」

「真二は青信号で飛び出したんです。悪いのは真二の方なんです。ですから賠償申請は出来ないんじゃないんですか」

「そんなことはないんですよ。何といっても真二君は被害者なんですからね。それにね、無責の三条件というのがあって、注意を怠らなかったか、自殺や当たりやでなかったか、車の欠陥はなかったかなどをクリアしなければならないんです。ですから損害賠償は申請できるのですよ」

「本当に申請できるのですか?真二が悪いのだから出来ないと思っていました」

「大丈夫ですよ。僕に任せてくれますか」

「はい、お願いします」

田原本健介が舅国次の国選弁護士でありながら真二の示談交渉などできるわけがなかったが、真二の交通事故死が国次の殺傷未遂の事件に密接に繋がっていることが警察や検事の事情聴取した調書から判明した。自白はないものの舅が孫を思う気持ちから犯行に及んだことは明白であり、情状酌量の余地があった。そこへ持ってきて舅の認知症とも思える症状を目の当たりにして、これは無罪を勝ち取ることも可能ではないかと推測した。更に調書をよくよく精読してみるとおかしなことに気づいた。舅側の車は舅の目の前で急停車して舅は一命を取り留めている。だのに真二は跳ね飛ばされた上に轢き殺されている。いくら青信号であったとは言え運転手が前方注意を怠っていたのではあるまいか、もしくは制限速度をオーバーしていたとしか考えられなかった。仮に制限時速四十キロを遵守していれば真二を跳ね飛ばしたとしても急停車して轢き殺すことはなかったと推測された。

田原本が順子を訪ねて来た最大の目的は真二の損害賠償の示談だった。最初は最悪の事態でも賠償金額を少し安くすることで舅の罪を軽くすれば国選弁護士の務めは果たせる。それで舅の弁護は片付くと軽く考えていた。その為にも示談交渉が成立する前に順子に逢う必要があった。順子が就業中であることを承知の上で無理やり面談を強要したのであった。応対に出た渡辺課長は若い弁護士の強引とも思える態度に懸念を抱いたが弁護を引き受けてもらえるのだから致し方がなかった。本来なら順子のためにも喜んでお願いすべきなんだろうがあまりにもすらっとした好男子で抜け目のない眼光に警戒心と言うか敵対心が燃え広がった。渡辺は付添い人として同席しようとしたが、田原本がお忙しいでしょうからその必要はないのではと言い出し、順子も何を思ったか渡辺を邪魔者みたいに扱い、

「私ひとりで大丈夫です」

と澄ました顔で田原本を喫茶店に誘い出したのであった。

渡辺課長は順子と田原本の間で真二の損害賠償の話まで出ているとは無想だにしなかった。男でも嫉妬するような華奢な田原本の出現によって、昨日までの渡辺を頼りにしていた順子とは打って変わってまるで邪魔者のように邪険に扱った豹変振りに半分呆れ、半分無性に怒りを覚えた。二、三十分の面談で片付く用件だろうから渡辺の裁量の範囲内で規則を大目に見ることも出来たのに、あてつけがましく半日の早退届まで出して田原本と二人で何処へ行って何を話し何をしているのだろう。渡辺は苛々しながら落ち着かなく、純真だと思っていた順子の心の内が分からなくなり女の怖さを見せつけられたような気がした。移ろい易いは女心と何とか云うがちょっといい男が現れると直ぐにそちらに靡いてしまう順子が信じられなくなった。あれほどいろんなことに相談に乗り世話をしてやったのに簡単に他の男に乗り換える順子の真意が理解できない。己の妻でさえ何を考えているのか分からない時があるのだから況して他人の順子のことだから致し方のないことだと自分に言い聞かせてみるが、何か軽く扱われて便利に利用されているようで腹立たしかった。美人は薄情だと世間の人はよく言うが順子だけは例外だと無理やり思い込もうとした自分の甘さに嫌気が差してきた。もう二度とあんな冷血な女の事なんか世話してやらないぞと、何度腹を括ったかわからない。これまで何度も煮え湯を飲まされたが、順子の潤んだような瞳に出会うとついほっとけなくて世話を焼きたくなるのだった。女は魔物とはよく言ったものだ。下心を抱く渡辺の弱みなんだろうか。それとも草臥れた妻と比較してあまりの違いに愕然となる己の醜い魂胆の表れなのだろうか。

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