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(七)

救急車に真二の遺体を載せる段になって順子はやっと舅の事が気になった。

「あの……祖父は元気なんでしょうね。今何処にいるんでしょうか」

「それがですね……刑事課で聞いてください」

警官は言いにくそうにそれだけ云って言葉を濁した。

「どういう事ですの。祖父は頭が少し可笑しいんです。何かあったんですか」

順子は痴呆症気味の舅の身に何が起きたのか、そう云えば警察署で担当警官が<訳の分からぬ年寄りとか><傘を振り回していた>とか云っていたのを思い出し、悪い予感がした。

「ですからそれは刑事課で聞いてください。交通安全課で取り扱う事案ではないんです」

それっきり警官はだんまりを決め込んで何も喋らなかった。順子もそれ以上しつこく詰問することは躊躇った。もう舅のことは心配しても致し方のないことでどうでもよかった。可哀想だとは思うが正直のところ手足纏になるだけだった。薄情なようだが居ないほうがどれだけ助かるかわからなかった。子供たちの祖父だと言うことであからさまに邪険にすることは出来ず、一緒に住んでいれば多少の情は通っていたが、歳も歳だしなるようになればいいと見て見ぬ振りをしていた。

救急車が家の前に着くと何処でどのように情報を手に入れたのか近所の烏合の衆が集まって来て陰口をたたいていた。

「子供と頭のいかれたおじいちゃんをほったらかして男と温泉へ行っていたらしいわ」

「可哀想にのう。子供が交通事故に遭うのも当たり前じゃ。不憫じゃのう」

「おじいが頭が可笑しくなるのも無理ないわ」

「四十九日が済んだばかりやのに、あれじゃ幸一君も浮かばれんわ。子供が出来たらどうするんやろうのう。誰の子か分からへん」

「半年間はあかんのやろ。それにしてもちょっと早いんじゃない」

まるでもう順子と渡辺が肉体関係があり妊娠しているような口ぶりで無責任な放言をはばからなかった。

一旦は救急車のハッチバッグから降りようとした順子の耳に<半年間はあかんのやろう>とふざけた言葉が飛び込んできた。三百日を半年と言うような連中に真二を見られたら、同情心ではあるだろうが面白おかしく吹聴される恐れがある。それでは真二が浮かばれない。

「すみません。申し訳ないんですけれど斎場の方へ回って貰えませんか。大勢の皆さんに心配して頂けるのは嬉しいのですが真二をさらし者にはできません。やはり身内だけで葬儀を出してやりたいのでお願いします」

「えっ、救急車で斎場へですか。無茶云わんでくださいよ」

「それじゃ、こんな小さな子を見世物にしろって云うんですか」

「そんなこと言われてもなあ」

「それじゃ近くまででいいです。そこから私が背負っていきます。お願いします」

「いや、私が抱えていきますよ」

渡辺も応援した。

「しょうがないなあ。近くまでですよ」

救急車は近所の人たちを掻き分けるようにゆっくりと動き出した。

結局、葬儀は僅かの身内と真二の担任教師とクラスメイトの代表者だけでしめやかに行われた。ほんの二カ月前に夫と姑の葬儀で町会やご近所に迷惑をかけたばかりで、そう何度も世話になることを順子は躊躇した。幸いなことに真二は未だ小さく交友関係もほとんどなかった。それよりも何よりも真二の酷い死に顔を誰にも見せたくなかったのが本音だった。順子は幸治や葉子にも真二を会わせなかった。最初は真二を抱いて添い寝をし真二を真ん中に幸治、葉子と川の字になって僅か十年しか生きられなかった弟の死を嘆き慰めて、一晩名残を惜しませるつもりだったが、それはそれぞれにとってあまりにも残酷すぎるように思えて、順子一人の目の奥にとどめる事にした。

白い布で頭を包み顔を隠したまま入棺の前に脱脂綿に水をつけて綺麗に身体を清めてやる段階になって初めて葉子は弟の真二が亡くなった実感が湧いてきたのか、それともじっと耐えて悲しみを小さい胸のうちに閉じ込めていたのだろうか涙一つ見せなかったのに血の通っていない真二に触れた瞬間、うわっと泣き伏した。

「真ちゃん、何で冷たいの。いつものように元気出してよ。笑顔見せてよ」

葉子は白い布を取ろうとした。慌てて順子がそれを制した

「真ちゃんね車に轢かれて顔がないの、可哀想でしょう、見ないでやって欲しいの」

順子の傍らで幸治が兄らしく何も云わずに葉子を抱き止めた。

通夜の夜、幸治は一睡もせず真二の前から離れず鈴を鳴らし黄泉の道案内をしながらたった一人の弟との別れに打ちひしがれていた。昨日まであれほど元気だったのにもう息はしていないのだ。ふざけることも共に遊ぶこともできない。人の命の儚さが信じられない。留守番を頼まれた幸治はすべての責任が自分にあると思い詰めているのか涙も流さず焦点のさだまらない目で一点を見つめていた。父親の亡き後自分がしっかりしなければと必死に耐えているのが横目でも分かるだけに順子は幸治が不憫で堪らなかった。

小さい真二の亡骸は別れを惜しむ時間もないままにあっという間に灰になった。舅は葬儀が終わるまでとうとう姿を見せなかった。豚箱にはいったままだ。警察は特別の計らいで孫の葬儀に出るように促したが、かたくなに鉄格子にしがみついたまま豚箱から出ようとしなかった。いくら痴呆症でも己が真二を殺したと思っているのだろうか。

あの日、舅は小雨が止んだのに傘を持って真二を迎えに行った。

公園の交差点の所で道路の向こう正面に真二を見つけ、

「真二、真二!」

と叫びながら赤信号なのに嬉しそうに傘を振りながら交差点を渡ろうとしていた。真二は声のする方を見た。

「あっ、危ない!」

真二は思わず車の陰から飛び出した。瞬間真二は宙に舞い地面に叩き付けられ、顔面をタイヤに轢かれた。即死だ。同時に舅の手前で<キッ、キッー>と反対側の車が急停車した。幸いにも後続車はなく転倒しただけで舅は助かった。舅は起き上がり真二を轢いた運転手めがけて傘を振りかざして突進した。

「覚悟、真二の敵討ちだ!」

地面に倒れている真二に気が動顛してふらふらとしている運転手は脇腹に不意打ちを食らった。蝙蝠傘の先端部分がめり込んだ。殺人未遂の現行犯で舅は逮捕された。

人間は生きていく過程で全ての人が何時でも何処ででも、己の意思とは関係なしに犯罪者になり得るし、被害者にもなる危険性を常に持っている。環境や持って生まれた宿命、偶然などが絡み合って現実性を帯びたものになる。

心神耗弱状態にあって正常な思考能力がなかったことは確かだろうが舅の取った行動は決して許されるものではなかった。神は人間を弱いものとして地上に存在を認めたのであろうか。それとも強く悪賢い者になることを求めたのだろうか。そうではあるまい。弱いもの同士として互いに助け合い愛し合うものとして生命を与えられた筈だ。その小さな命が一度も助け合う事も愛し合う事もなく一瞬の間に無残に散っていった。舅の脳裏の奥に潜んでいた、戦時中に目の前で死んでいった戦友の姿が蘇り無意識のうちに運転手を刺したとしても不思議ではなかった。幸いにして鋭利な刃物ではなかったため運転手は一命を取り留めた。

真二の葬儀を終えた順子が警察に出向いた時には、舅は頑として口を開かずすでに四十八時間の拘留期限が切れ自白調書のないまま現行犯と言うことで検察庁に移送された後だった。堺の刑務所まで面会に行った。舅は一週間ばかりの間にすっかり様子が変わり無精髭の顔は小さくしわくちゃになっていた。よたよたとして覇気がなく何時お迎えが来ても可笑しくないほどやつれていた。

「おじいちゃん!」

と呼んでも何の反応も示さず無精髭をいじくるだけだ。こんな高齢になって刑務所に厄介になるとは、順子は可哀想で涙が止まらなかった。それでも舅は最後ににっと薄笑いを浮かべた。それが何を意味しているのか順子には分からなかったが何か救われたような気がした。

痴呆症が大分進んでいて検事の取調べにも目が空中を彷徨うばかりで碌に口も聞けない始末だそうだ。唯妻の名前だけはしっかり覚えているらしく、時折、静江!と奇声を上げるのが不思議でもあり痛ましく、近々警察病院へ入院させられるらしい。

六月も終わりだというのに梅雨らしくもなく本格的な夏を思わせる太陽が刑務所の塀をじりじりと照り付けていた。蝉のシーズンには未だ早くひっそりと静まり返り塀の中は小さな虫さえも息をしていないような死の世界に感じられた。順子は帰りの車中で哀れな舅の行く末を案じていた。古希も過ぎた年寄りが世間から切り離された刑務所暮らし。世間並みであれば贅沢さえしなければ夫婦二人でのんびりと年金暮らしが出来た筈だ。一体舅の人生は何だったのだろう。明けても暮れても仕事ばかりで何の趣味もなく、生活することに追われ夫婦で何処かへ旅行することも出来なかった。病弱な妻と出来の悪い息子に振り回されて頭が可笑しくなり最後は可愛い孫のために刑務所行きだ。

順子と同じ四国の山奥の三男坊に生まれ、軍隊に執られ満州からシベリヤへ抑留されやっとの思いで引き上げてきたが、食べるものも職もなく単身西も東も分からない大阪に出て丁稚小僧や新聞配達など転々と職を変え、最後に縫製屋の親父に拾われ縫い子になった。苦労の末年季が明けて何とか独立し家庭が持てたのは三十五歳だった。真面目さが見込まれ親方の好意で静江と世帯を持った。直ぐに静江は妊娠したが独立のための資金と結婚の費用等で借金の山を抱えていた。やむなく最初の子は涙を呑んで降ろした。それが大きな間違いだった。降ろした子供の祟りなのか妻の心身が可笑しくなり鬱になったり熱が出たりした。それでも二人は頑張り幸一を産んだ。前の子の罪滅ぼしもあって幸一を猫可愛がりに可愛がった。何の因果かその結果がムショ暮らしだ。一所懸命生きてきたのに少しも報われることもなく誰が悪いのだろうか。運が悪すぎるでは済まされないものがあった。

舅は十日間の拘留期限が切れても検事の前でも現場検証の席でも薄笑いを浮かべたり、涎をたらしたり時には奇声を上げるだけで何も喋らなかった。検事にも舅が痴呆症で責任能力がないことは明確だったが、だからと言って現実に被害者が居る以上そう簡単に無罪放免は出来ない。とりあえず拘留期間を延長して弁護士とも話し合い対策を立てることにした。ところが順子には弁護士を依頼する金がなかった。やむなく国選弁護士に任せるしか方法がなかった。

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